フワフワした見えない相手
「結婚」を巡って、いろいろな話を聴く。そこでは、人の欲望や諦念、理性と感情の渦が音を立てて舞い上がっていて、考えさせられることが多い。
「わたしは25で結婚相談所に登録したけど、全然男性と会えなかった」
知人の女性はそう言っていた。結局、相談所は辞めたらしい。
「『退会します』って言ったとき、相談所の担当カウンセラーから引き留められて(まあ商売なんだから当然よね)、その台詞がね『(男性会員に)会ってもらえるにはどうしたらいいか、一緒に考えましょう』だったの」
彼女はそのとき、薄い絶望に襲われたらしかった。自分は「会っていただく」側なのだ、自分という女性のことを「どうかお嫁にもらってください」と頭を下げる側なのだと思わされて、ひどく嫌になった、と。
「もらってください」かあ……と思う。扱いがモノみたい。すごく昔のドラマで父親が娘のことを指し、義理の家族に向かって「ふつつかな娘ですが貰ってやってください」とか言う場面があったような、おぼろげな記憶がある。あれは過去の話じゃないんだろうか。令和になってもまだ、女性が「贈答品」扱いされる世界が、思ったよりも身近にあるんだろうか。うすら寒いな、と思う。
あるいは「結婚したいわけじゃないけど、している人のほうが人として『落ち着いて』るように見える。このご時世、別に結婚してなくても問題ないって頭ではわかっているけど、やっぱり社会的証明になるからしたいって思う」と話していた男性。
「理性では『問題ない』って思ってるわけよ。でも感情ってまた別で……。やっぱり法的にパートナーがいる人のほうが、人としての輪郭がはっきりしてる気がする」
人としての輪郭。それってなんなんだろう。「一人前の大人になる」って感じだろうか。いくら頭では「結婚していても、していなくても何も違わない」と思っていても、心のどこかで「既婚者のほうがまとも」と感じているんだろうか。
確かに、単に独身であることを「未婚」と呼んだり、シングルの人に対して「いつまでフラフラしているの?誰かいい人みつけないと」と話しかける人はいる。つまり「結婚していない」=不安定、落ち着いていない、フラフラしている、というイメージなんだろう。
そういう漠然としたイメージは、漠然としているからこそ、明確に否定したり駆逐したりすることができない。そういう、すごくふわふわしたものに苦しめられている人がたくさんいるのは、なんだかもどかしい。「闘う相手が目に見えないから、闘い方もわからない」みたいな苦戦を強いられている人が多くて、途方に暮れてしまう。
そういうフワフワした「空気」とか「イメージ」というものと、どうやって付き合っていったらいいんだろう。最近そんなことを考える。
本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。