幸せにできなくても、子どもを持っていい?
前に『しょぼ婚のすすめ』の読書感想文を書いた。このときは「結婚」にフォーカスしていたけど、本には子育ての話も載っているので、今日はその話をしたい。
「子どもを持つのをためらう理由」に「幸せに育てられるかわからないから」というのが時々ある。「いまの日本の状況を思うと、子どもが将来いい生活ができる保証がない」って人もいるし「ちゃんと育てられるかどうか自信がない、お金がない」って人もいる。
『しょぼ婚』にはこんな風に書かれていた。
はい。
確かに「子どもを幸せにしてあげられるかわからない」って、怖いセリフなのだ。なんで親が、子どもの幸不幸を握っている前提なのか。もちろん、最低限の衣食住を提供するなどの親の役目はあるけど、その子が幸せかどうかまで支配できるなんてことはない。
たぶんこの手のセリフを言う人は、「幸福とはなにか」が自分の中でガチガチに定義されているんだろう。だから、そのガチガチに決まった「幸せ」が子どもに与えられないと、その子が不幸になると思ってる。
でも、親と子どもは別ものだ。別の価値観を持っている。そしてたくさんの人と出会い、影響を受けて育っていく。親の存在はなるほど大きいが、それでも人生における登場人物の一人や二人に過ぎない。
父親も母親も、子どもの人生すべてをどうにかできるほど強い存在じゃない。「幸せにしてあげられるかわからない」っていうのは、「自分が子どもをコントロールできる」と思ってないと言えないセリフだろう。
自分が影響を受けた人を考えてみる。確かに母の存在は大きい。物事のベースとなる考え方は、どうしたって親に似る。でも一方で、父や母とまったく同じ価値観を持っているわけでもない。結婚すれば、夫になった人から受ける影響のほうが大きい。
習い事の先生や大学の教授や、通っているうちに仲良くなったお店の人とか、いろんな人が自分の価値観をつくっている。SNSを通じて拾った影響もあれば、学校の友達から新しい考えを教わるときもある。大きくなるにつれて、親の存在感は薄くなっていく。
『しょぼ婚』では、これが書かれた章の最後をこう結んでいる。
また、最後に設けられたQ&Aのコーナーでは、こんな質疑応答も。
みんなが、できることで社会に貢献していけばいい。そうですね。
『しょぼ婚』の感想文は、記事を出してしばらく経ったあともわりと読まれている。結婚というテーマは関心が高いんだろうか。子育てについても一家言ある本なので、気になる人は読んでみてもいいかも。
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