ひとりでできるもん……がいいとも限らなくて
ひとりでできるもん。そういう番組あったな、と思いながら、このところ読んでいる本を読み返している。食卓と家族を20年に渡って追い続ける『ぼっちな食卓』。
多くの家庭を、長い期間にわたって調査をしていれば、当然どこかは破綻するところが出てくる。その破綻理由を「おもしろい」と言ったら不謹慎なのだろうけど、現代的だなあと思うくだりがあった。
昭和の時代にあったような「夫の暴力」や「嫁姑争い」というのは、いまや破綻の理由としてメジャーではない、と筆者は書く。火花が散って派手に壊れていくような崩壊の仕方は、平成そして令和にはめずらしいことみたいだ。
人と人との距離が近いために破綻する……のではなく、互いに自立できるから助け合う必要がなく、距離が生まれ、やがて溝になる。静かで音のない破綻。喧嘩しない代わりに会話もない、熱のない関係。
「君がしたくないならしなくていいよ。ぼくの分はぼくがするから」。これは、現代の夫像としてすごく「正しい」感じがする。逆に「女なら家のことはなんでもやれ。俺は家事なんぞやらんしできん」は、時代錯誤で「まちがっている」と言われるだろう。
正しい感じがするのに、それが夫婦間の破綻を招いている。「自分のことは自分で」という発想は、なにも悪いものではないように見えるのに、関係悪化の原因になる。なにか変だ。
違和感の答えらしきものは、もう既に文中に書かれている。何かができるということを、協力じゃなく、分離に使ってしまえばそうなる。
「私はこれができるから、あなたの分も任せてほしい」ではなく「私は自分の力を自分のためだけに使う。あなたもそうしたらいい」というスタンス。それは自立というより単に利己的な発想で、お互いこれを発動したら、なるほど夫婦の仲も冷えるだろう。
自立する力があるのはいいことだ。その能力を誰かのために使えたらもっといいし、お互いがそうできたら相手も自分も幸せになる。ものすごくあたり前の綺麗ごとで、いまさら言われるまでもない。
でもそのあたり前のことを、もう一度言ったほうがいい社会なんだろうな……と思う。
自分は結婚前までなんとなく「お互い自分のことは自分でする夫婦」が理想なのだと考えていた。理想というか、現代的。たとえば朝の出勤の時間がバラバラなら、互いに顔を合わせることなく、めいめいが自分の朝食を食べて出かけるような。
そのイメージの裏に「わたしが相手の朝ごはん作ってあげること、ないよね」という気持ちがあったのは認める。自分だって出勤前は忙しいんだから、勝手に食べて出て行ってほしい。そういう発想。
だから本で描かれている家庭のことは想像がつく。自分も似たようなところがあるからわかる。
もっとも実際には、旦那さんの希望で毎朝ごはんを用意しているし、それが別に苦でもない。「相手のために何かしてやってる」みたいな気にもならない。やってくれって言われて、できるからやってる。それだけ。
やっている側としては、そんなに「自分の時間と労力が削られる」と考えなくていいんじゃないかな、と思う。言うほど削られないし。互いに「ひとりでできるもん」と言うより、効率いいんじゃないかな。