サドマゾヒズムとは
「サドマゾヒズム」という単語は初めて聞いた。『なぜ自分をいじめるの?』という本の中にでてくるのだが、自分を痛めつけて (サド)それを楽しむ(マゾ)傾向のことを言う。本のコピーから例を引用すると「浮気な男に裏切られても別れない女、口うるさい妻に罵倒されつづけながら離婚しない夫」あるいは「横暴な上司に唯々諾々と従う部下」なんかも挙げられている。こういう自分いじめの行為をサドマゾヒズムと言うらしい。
自分が傷つくとわかっていて、その環境に居続けたり、もしくは自分から飛び込んでいく人は「サドマゾヒスト」と呼ばれる。彼らが異常な人々かというとそんなことはない。誰にでもこの傾向はある。もちろん自分にもある。
私は「誰か偉くて賢い人がいて、その人の命令に従っていれば楽でいい。自分で考えて動く必要がない」と考える癖がある。自分よりも力が強くて頭がいい(と思われている)人の言うことに、ともすれば流されそうになる。そのせいで、明らかに間違った行動を取る人の支配下に入ってしまい嫌な思いをしたことがあるのは、やや不快な思い出だ。だけどそれは結局、自分いじめの一種だったと言える。反抗することや逃げることも、絶対に不可能ではなかった。
人がわざわざ苦痛を求めに行き、そのせいで自滅することは珍しくない、と筆者は書いている。そうかもしれない。人は(自分も含め)どこかで「トラブルがあるほうが退屈しない」とか「痛い思いをしているほうがかっこいい/世間体がいい」とか考えていて、そのせいでむざむざ幸福を手放す。
苦労なんてしなくて済むならしないほうがいい。幸せになっていい。やりたくないことはやらずに済ませる方法を見つけよう。嫌いな人とはサヨナラしよう。好き好んで苦痛を選ぶのをやめよう。「自分から苦しみに行かない」ただそれだけで、自分いじめは止む。サドマゾヒズムと決別するには、そう決めるだけでいいのだ。
そんな、一見当たり前のことをわざわざ書くのは、自分が思い込みに捕らわれていた証拠でもある。「優秀な人間でいなければならない」「優秀な人間はおめでたそうに見えてはならない。いつも不機嫌でカリカリしてなければならない」みたいな謎の考え。不機嫌でなきゃならないような思い込みなら、捨てたらいい。サドマゾヒズムにさようなら。