言葉のウソ、ホント

言葉は基本的に、それが真実だという前提の下で発される。だから発した言葉には責任が伴う。「責任」というと重い単語に聞こえるけれど、約束と言ってもいい。嘘を言わないという約束、あなたを欺かないという約束。私たちは会話をするとき、とりあえずは暗黙の内にそんな約束を交わしている。

だから交わした言葉は一種の契約になる。例えば「三時に駅の中央改札で待ち合わせね」「オッケー」みたいな会話もそうだ。お互いに、三時に改札の前で待ち合わせることを疑っていない。言葉は発されたときから契約を始める──。

グリム童話を読んでいたら、そんな考えが頭の中を流れて行った。童話のタイトルは『めっけ鳥』、女の子と捨て子の「めっけ鳥」が2人で姿形を変えながら、自分たちを追う魔女の手から逃れる話。その中に、同じパターンのやり取りが繰り返し出てくる。

「めっけ鳥、私を置いていかないでね。そうしたら、私もあなたを置いていかないから」
「もちろん、置いていかないさ」
「あなたはバラの木になってよ。私はその上で咲くバラの花になるから。」
「めっけ鳥、私を置いていかないでね。そうしたら、私もあなたを置いていかないから」
「もちろん、置いていかないさ」
「あなたは教会になってよ。私はその中を照らすロウソクになるから」
「めっけ鳥、私を置いていかないでね。そうしたら、私もあなたを置いていかないから」
「もちろん、置いていかないさ」
「あなたは池になってよ。私はそこで泳ぐ水鳥になるから」

言葉を信じて交わされている会話だな、と思う。「あなたが私を見捨てないなら、私もあなたを見捨てない」という約束も「もちろん置いていかない」という約束も守られている。誰も嘘をつかない。「バラの木になってよ」と女の子に言われためっけ鳥は本当にバラの木に姿を変えるし、女の子も言った通り花になってみせる。「言葉が守られる」話だ、と思う。

嘘をつくことができるのは、言葉は基本的に真実を語るものだという暗黙の了解があるからだ。嘘をつくことが悪いのは、その原則を裏切り、すべての言葉の信憑性を揺らがせる行為だから、ということもできる。人を騙すのは悪いことだけれど、それ以上に言葉への信頼を貶める行為でもある。

ところでマイナスとマイナスは掛け合わせるとプラスになる。嘘とわかっていて発される嘘は罪にならない。代表例が演劇や物語だ。あれらは嘘でありながら嘘じゃない。虚構の世界に関わる人たちが「この作品はフィクションです」とことわるのは、言葉の力を守り嘘を楽しむための、鍵となる一言なのかもしれない。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。