「何」より「どんな」を問う意味

実家に帰省している。星空が綺麗で、月の光は痛いほど強くて、月明かりだけではっきりと影ができる。中学校の理科の先生が「星の綺麗な日っていうのは雲がないだろ?めちゃくちゃさみぃんだ、大気がぜーんぶ上に抜けてっちゃうから」と言っていたのを思い出す。今日は確かに寒いけれど、凍えるほどじゃない。

星空の描写は、今までいろんなところで見聞きしてきた。ずっと夜空を見上げていた子どもが「空に落っこちちゃいそう」と言うエッセイもあれば、実際に「空ずーっと見上げてると、平衡感覚失うよね」と言っていた知人もいる。どちらもその時はよく理解できなかったけれど、今晩、星空をポカンと眺めながら歩いていたら、だんだん意味がわかってきた。足元がおぼつかなくなり、クラクラする。どうして星があんなに輝くのか疑問に思えて来て、心までグラグラする。

体験してみないとわからないことっていうのはあるものだ。その最たるものが、歳を重ねることかもしれない。中学校の頃には聞き流しただけだった「雲のない日は星が綺麗だ」という事実を、10年経ってから身を持って知ること。思春期の時にはあれほど抱えていた「消えたい」「死んでしまいたい」という感情が、いつの間にか鈍って、感覚の鋭敏さが消えた「大人」になっていくこと。生きてみないと、どの感覚も理解することはできない。

「何がしたい?」とか「将来、何になりたい?」という問いかけはわかりやすいが、もっと繊細な問いを自分は持ち出したい。「どんな感覚を感じたい?どんなことを思う人でいたい?」そんな問い。「何」ではなくて「どんな」を訊ねる質問のほうが、ずっとその人がどんな人間なのか、理解させてくれるように思う。

自分に関して言えば「私はここにいていい」と感じたいし、「受け入れられている、必要とされている」という安心感を持ちたいのだ。だから、時々(就職の面接なんかで)聞かれる「あなたは私たちに何を求めていますか」という質問には、正直にそう答えたいくらいだ。私は、自分がここにいていいと思えるようなところにいたいんです、と。

それが自己紹介として機能するかどうかはわからない。だけど、この問いが、その人の目指す理想像をあぶり出してくれるのは確かだ。中には「刺激的な環境でクリエイティブな仕事をしてる実感が欲しい」という人もいれば「目の前の人の役に立てていると思えたら嬉しい」タイプの人もいる。目指す感覚は、十人十色だ。

「何」を追求する問いに限界を感じたら、「どんな○○を感じたいか」に質問をシフトしてみるのもいいかもしれない。そして、その感覚に近づくために何をすればいいのか考える。そのほうがずっと、ゴールへの道の短縮になるかも。今日はそんなことを考えた。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。