クリスマス鍋
聖夜といえば、きりたんぽ。我が家では代々そういうことになっている。
クリスマスというものに、両親ともあまり関心がなかった。家にサンタは来なかったし、父は「俺は仏教徒だ」と、盛り上がる世間の風潮をかたくなに拒んだ。ただ、冬に鍋をする口実として、クリスマスは最適だったのである。
キリスト教圏では、聖夜は家族と過ごすものらしい。「この日には恋人がいなきゃ」なんて盛り上がりは日本だけかもしれない。それでいい。ある風習は、よその文化圏に伝わればどう料理されるかわからない。日本のクリスマスは「そういうもの」なのだ。
だとしても「誰かお相手がいなきゃ」というプレッシャーは、ときどき強すぎるように思う。むかし女の子と付き合っていたとき(この子は気の強い自立心の強い人だったのだけど)クリスマスイブに会うことになった。
別に日付を意識したわけじゃなく、たまたまその日の都合がよかったのだ。いかんせん次の日には「家族できりたんぽ」という目的のため帰省する必要がある。それでイブに彼女に会った。
待ち合わせ場所に行ってみると、いつもよりずいぶんキレイ目な恰好の彼女がいる。化粧も気合が入っていて、ディオールの紙袋を手にしている。ふだんと同じ服装だった自分が「今日ずいぶん違うね」とうろたえながら声をかけると
「この日ばかりは、ぼっちの喪女だと思われたくない」
妙にきっぱりした返事が返ってくる。そっかあ。意外と気にするんだ、そういうこと。ディオールの袋には、彼女お手製の砂糖菓子が入っていて、プレゼントにもらった。お礼として、その日予約して行ったパンとお肉の店は、わたしが会計を払った。
そんなことはどうでもいい。クリスマスといったら鍋なんである。
このあいだ読書好きのおばさんが、とある文庫本を贈ってくれた。『ぐつぐつ、お鍋』と言う。さまざまな作家の「鍋」にまつわるエッセイ集で、中にはこんな話が出てくる。
筆者は阿川佐和子、テレビで女性タレントが「オトコをゲットする方法」を指南している。たとえば「自分の部屋にボーイフレンドを招いたとき、用意するべき料理はどれか」。まあもう既に答えは割れているんだけど、いくつかの選択肢の中の、答えは鍋だった。
他の選択肢は「ハンバーグ」とか「肉じゃが」だったのだが、それを押さえて鍋。「夏だったらどうするんだろう。食べても熱いよなあ」とぼんやり思うけど、舞台設定は冬だったのかもしれない。あるいは、それこそクリスマスとか。
件のタレントによると、鍋は本性が出る。つくっているときは共同作業だから、お互いの距離感が縮まる。さらに、最後の具を断りもなく食べるかどうか、食べ物の好き嫌いはないか、なんでもわかってしまう。それで鍋がいい、とのことだった。
なるほど。だったら、聖夜にはみんな鍋をやったらいいんじゃないか。なにも大枚はたいて、人で混み合う中おしゃれなレストランに行かなくたって、お家で鍋をやるのがいい。あったかいしコスパがいい。いま流行りのコスパ。
就職してからは25日に帰省するのがむずかしくなり、家族で鍋をするのは年末年始になった。今度は結婚して、クリスマスはやっぱり鍋にしようねと言っている。旦那さんはフグが食べたいというので、今年はきりたんぽに会えそうもない。
あのとき彼女がくれた砂糖菓子は、なんて言うのかいまだに知らない。シュトーレンではない、丸くて、白くて、砂糖をまぶしたお菓子。おばさんは本と一緒にお菓子も送ってくれたが、この中には無印良品の「紅茶のブールドネージュ」があった。
イメージはこれに近い。
それにしても知らないよ、ぶーるどねーじゅなんて。お菓子もいいけど、やっぱり鍋がいい。
本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。