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哲学ノート⑩何かと引き換えだ

昨日に引き続き、権利と義務の話。

「権利と義務」、もっと言うと「何かに伴って生じる事態をどう保障するか」という問題に広げられると思う。例えば、いま「自粛しろ」と「経済を回せ」の2つの立場が対立している。

他人に「自粛しろ」と言うなら、それに伴って生じているいろんな事態──飲食店の売り上げ不振、観光地の空洞化、あるいは人と会えないことで発生してしまう精神的なダメージなど──に思いを馳せて、その衝撃をどうしたら緩和できるかも一緒に提示するべきだ。

テイクアウトで好きな店を支援するのでもいいし、外食に充てていたお金をクラウドファンディングに託すのでもいいかもしれない。少し遠くにあって行きにくいけど応援したい土地やレストランがあれば、SNSなどで紹介して、お近くの人に見つけて行ってもらうのもいいかもしれない。

あるいは「経済を回せ」という声もそう。観光地に行くのも、飲食店に行ったり映画館に行ったりするのは悪いことじゃない。ただ人の移動でウィルスも移動する事態を懸念して、できることは提示したほうがいい。

人と距離を取る、大人数で移動しない、よく触る場所(とりわけスマートフォンやタブレット)をこまめに消毒すること、三密を避けること。もちろん、手洗いやうがい、マスクの着用を忘れないこと。基本的に、宿やお店側の要請(手を消毒してから入店してほしい、マスクを着けてほしいなど)には従うこと。

個人的に「自粛が絶対ただしい、みんな遊びに行くの止めてほしい」という人は、それに伴って生じることにもう少し目を向けてほしいな……と思う。いままでのように人が出歩いていない、それだけで死ぬ経済があるので、自粛ばかりが絶対正義というわけではない。

家にいろと言ってくる人はいる。でもそれで生じる問題をどうしたらいいか、その代替案まで提示してきた人は皆無に等しい。だから正直「対策しつつ外に出よう」と言っている人たちのほうが、対策案を出している分、分があると思っている。

誰かが権利を主張するなら、それに伴う義務を誰かが背負うこと。社会は繋がっているから、単に「これだけしていればいい。権利を主張すればあとはOK」というものでもないこと。ひとつの論文から、そんなことを考えた。

誰かに向かって「ああすべきだ、こうすべきだ」と言うのは簡単だ。でもそれだけだと言いっぱなしの無責任になってしまう。自分は人に「旅行するな」とか「家にいろ」とは言わない。その人が旅行あるいは外出しないことで起きる、いろんな損失を補填できないからだ。彼/女は、いましかできない体験を逃すかもしれない、次に行こうと思ったときには、行きたいところが消滅しているかもしれない。(パリの大聖堂の焼失は記憶に新しい)

もちろん、感染などのリスクと引き換えにはなるけれど、そのための対策方法は出回っているから、それらを押さえた上で移動するべきだ。完璧な回答は何もないけど、どんな行動も何かと引き換えにするものだ。この時期だからそんな風に思う。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。