果たして現在の"推し"なのか。
時々、この人は自分と同じような経験をしてきたのではないかと思うことがある。
わたしは音楽が好きである。今では生活の一部として流れている音楽というものに特別な感情がわたしにはある。
"わたしだけ"という恐怖に押し潰されそうな場所にいた頃、人に優しく、誰よりも良い子に、という言葉に支配されていた頃のわたしに、ロックバンドを教えてくれた人がいた。
誰一人として、自分が味方だと思うことが出来る人が周りにいなかったわたしは携帯画面に助けを求めていた。
写真すらなかったので顔も名前もわからない人と、表情もまるでわからない文面を通しての会話だけがあの頃の自分を救っていたのかと思うと、不思議な感じがする。
彼が何を聴いているか、教えてもらった。
当時の自分には初めて目にするグループの名前だった。携帯で調べているあいだ想像もつかなかったし、横並びの英語に難しさを覚えていた。
表示された動画をクリックする。聴く。正直画面に映っている静止画の時点では興味もそそられなかった。その時はただ彼が聴いている、という理由だけが指を動かしていた。
そこには全世界を、全人々を、苛立ちを、これでもかという程にキツく生々しい言葉を使って赤裸々に綴られた音楽が流れていた。
衝撃的だった。
元々音楽には触れてきていたがわたしの中にある"音楽"という辞書にはキラキラだとか、憧れだとか、そういった何処か現実離れした世界がそれだと思っていた。
勿論、それが救いになることも当然あったし、本当に素晴らしい方達だと心から励まされた。
自分の心にある言葉とは全く正反対だ、と。
"正反対"の言葉だらけで綴られた歌詞はわたしとよく似ているとすぐに感じた。今までに感じたことのない気持ちだった。
「音楽の中にわたしがいる」と思い始めたのもこの辺りからだったと思う。
人を嫌う言葉、自分を傷付ける言葉、切実な叫び、誰の耳にも届かない声。
全て、わたし自身が許さなかった言葉たちで音楽が出来ていた。音楽が代弁してくれているのだ、と心から安心した。こんな言葉を使っても良いのだ、人に発信しても良いのだ、とその時に初めて知った。
そして同時に、この言葉を、やりきれない感情を、わたしと同じように抱いている人がいる。それを知ったことが何よりの救いになったのだった。
推しと人間。推しも人間。ー
歌詞とは真逆に、穏やかな口調で話す"推し"がいる。僕の元から離れた音楽は全てあなたのもの、いつだってこの音楽があなたの人生の一部でありますように、と話す"推し"がいる。今でもその想いは、聴く音楽が変わってしまった今でも忘れていない。
その"推し"は、今表舞台には顔を出していない。当然新しい音楽も発表されていない。4年前の最新アルバムで時が止まっている。4年前の最新曲よりももっと昔に出来た音楽を引っ張り出す。そこにも"推し"は存在しているし、今のわたしにもあの頃と同じように語りかける。受け取った感情で今の自分を知る。
好きなものや選ぶ言葉、これから出会いたい人達や自分すら変わっていく中で唯一変わらない基盤として、"推し"はいつまでも存在し続けていくのだろうと思う。