認知の定着はいかにして起こるのか
認知とは
認知という言葉について、幾度かの衝撃的な知識の更新、或いはパラダイムシフトと呼んでもいいような理解の拡張が人には起きる。などと言われてもピンとこないだろうか。
筆者ですらそれが訪れたのはずっと後のこと、ごく最近のことと言ってもいい。
認知とは一言では言い尽くせないほどの範囲があり、多面的であり、多角的だ。
認知と隣り合っている言葉に「認識」がある。認知に比べると認識の方がなじみ深く、一般的によく使われる言葉だ。その違いはどちらも「存在や価値を認めること」という意味であるが、「認識」の方が物事の内容や意義を深く理解するという意味合いが強いと言える。
認識は用例として「認識が甘い」「認識が違っている」などがあるが、ここに認知を代用すると不自然さを感じる。認知とは甘くもならないし、違うこともないということだ。
雲の色は何色か~認知と認識の違い
白が白色だという認知、そこには黒系の色に比べて明るく、空に浮かぶ晴天の雲は白く、雨の日の雲は黒い。そこに認知の甘さも違いも存在しない。存在すれはそれは認知とは呼べないのだ。
逆に言うと「雨の日の雲は黒い」は認知と言えるかどうかは微妙だ。それを灰色と表現することもある。雨の日の雲は何色かと問われれば必然ばらつきがあるし、即答できない人もいるだろう。黒い時もあれば灰色の時もある。場合によっては白い場合もあると慎重に答える人もいるだろう。
「雨の日の雲は黒い」は認知の違いというよりも質問に対する認識の違いということになり、慎重に答えを出した人からすると単純に黒だと答えた人は認識が甘く見えるのではないだろうか。
このように認知の上に認識が成り立っていると考える方が理解が早いが、認知を知れば知るほど、考えれば考えるほど、そう簡単に言い切れない部分が姿を現すのが認知に関する研究、認知科学ということになるだろうか。
認知を司るもの~認知に対する科学的アプローチ
認知は脳に形成されているとして、どのように定着するのかという問いはかなり高度な考察を要求する。
近年ではAI(人工知能)の分野で認知科学は多くの注目を浴びている。また技術の革新により神経科学、脳科学の分野も飛躍的な進歩を遂げ、人間に限らずあらゆる生物がどのように認知をし、それを活用して生きているのかという研究は実に興味深い。
これらの新しい科学情報はこれまで書籍に頼るしかなく、その書籍を読み解くためにはより多くの知識を必要として。
しかし現代においてはyou tubeなどの動画によって自分にあった知識量でそれらを閲覧し、理解を深め、より専門的な知識に手を伸ばすことができるようになった。
たとえば日経BPから出版されて話題になった慶応大学教授今井むつみ著『「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか?』について紹介している動画はいくつも観ることができる。
youtube番組「PIVOT 公式チャンネル」はビジネスパーソン向けに対談をしている動画を見ることができる。
筆者の立場からすると言語学からのアプローチがとても面白かった。
ゆる言語学ラジオのポッドキャスト及びyoutubeでは『人のすれ違いは「スキーマ」から生まれる。【赤ちゃんミステイクアワード】』は子供がいかに認知を獲得していくのかという視点が興味深い。
また日本神経科学学会市民公開企画の【脳科学の達人】では脳科学のアプローチで認知について知ることができる。
人間はいわゆる五感【視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚】で知覚し、認知を形成しているが、他の生き物は紫外線を知覚し、地磁気や超音波を知覚して世界を認知していることがわかる。
つまり人間とは違う知覚を持つことで、人間とは違う認知世界があると理解できる。
認知の定着
このような新しい知識の体験は過去に学び認識していた常識のアップデートを促す。だがそれらはすべての人類に同時に起きることではない。そうした知識に触れることができ、積極的に検証する人とそうでない人では認知に対する意識の認識がずれてくることが予測できる。
アインシュタインが相対性理論を提唱した時、ガリレオが地動説を提唱した時、世界は簡単にはそれらを受け入れることができなかったという歴史がある。人の科学に対する距離は千差万別であり、科学者ですら新しい理論に対して容易に受け入れることはできない。
天動説はなぜ広く受け入れられたのかを考えてみると認知が定着するのに必要なことが見えてくるように思える。
現代のほとんどの人はニュートン物理学を理解しているので、慣性の法則と重力によって、これほどの速さの地球の自転速度であっても平然と地面を歩くことができると知っていますが、そうした知識なしで地動説を唱えることは困難である。
なぜなら私たち地上にいる人間には地面は動いているように見えず、空が動いているように見える。人間の五感で地動説を説明することも認識することも、もっと困難だと言える。
そして新幹線の速度の6~8倍という感覚は日本人にとって身近でわかりやすい表現ですが、世界一般的に列車の速度と比較するのは一般的ではないかもしれない。
さらに速度がイメージできるというのは体感的に自動車などの乗り物によって20キロ、100キロのスピード感を説明できるかもしれませんが、より正確に伝えるには微分積分という、一見人の生活にはあまり関わりないような数学的知識を用いていることも重要である。
科学的・数学的知識を有している人はこうした思考のもとに世界に事象を認知しているともいえます。それらを多用し、日々肌感覚として持っている人と、自転車で駅まで何分で行けるかということを寝坊した時だけ考える人とは世界の見え方がおのずと違ってくるのではないだろうか。
このように認知の定着とは一次的な知覚による認知と知識による認知で大きな差異があり、宇宙物理学の世界での大きいと小さいは、肌感覚とはまるで違う認知の世界であるとも言える。
言語世界の認知
筆者の立場で言えば物語を書くときにできるだけ多くの人に情景や描写、そして心象風景や人物像、心の動きやそのメカニズム(行動原理)を理解してもらいたいと努めながらも、ついつい、自分の認知に引っ張られ、時には誤用してしまう。
また、筆者が登場人物の所作や言動、使う言葉の選択によって年齢や性格を表現しようと思ってもそれが100パーセント読者に伝わると期待するのは危険である。
ゆる言語学ラジオの『言葉のすれ違いで人が死んだ話。言語は不完全すぎる。』の回では、言語とは出来が悪いものだとし、言語のちょっとしたミスで大きなトラブルになったというエピソードを紹介している。
人の認知やスキーマ、思考特性は多様であり、さらに文化風習により差異が生まれているということをまず認しくする必要があるだろう。
認知について知ることは重要だ。それは日常の会話や文章によるやり取りの中に潜んでいる「認識の違い」「認知の過大評価」はときに大きなトラブルを生むことがある。
それが笑って済ませられるように人の心ができているという仮説を筆者は持っている。
認知にはずれがあり、それを訂正する能力と時間が人にはある。それは他の動物との大きな差異ではないだろうか。
野生の動物にとっては認知の誤認はそのまま生死に直結する。人はより複雑なコミュニケーションを必要とするために、認知を修正する時間と間違いに対して致命的なダメージにならないように笑いを獲得したのではないだろうか。
筆者がとある小説投稿サイトの自己紹介欄に「小説を投降」と長期間誤変換したまま放置してあったことも、ぜひとも笑って済ませたいものだ。
ふと思いついただのが、今年、下記のような宿題をもらっていた。
人がなぜ幽霊を怖がるのかはやはり認知を脅かされるからではないだろうか。そしてモノマネを笑うのはモノマネされている対象を自分がどう認知していたのかということをいじられるからではないだろうか。認知がゆらぐ、認知がくすぐられる。
これはかなり有力な仮説だと思われる。次回はそのあたりを整理してみようと思う。