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【心の解体新書】10.共通認識と普遍性~距離感という幽霊

心の解体新書】は筆者が一年後(2025年夏)までに『人はなぜ幽霊を怖がるのか、人はなぜモノマネを笑うのか』というお題に対して答えていくための思考メモです。そのために
・人はなぜ心を持つようになったのか
・心の機能――身体と心の関係と心の役割
・人はなぜ笑うのか
・人はなぜ怖がるのか
・心と感情と知識の相関図
・心は鍛えられるのか
・共通認識と普遍性
・心の言語化と会話の役割
・幽霊をモノマネすると人は怖がるのか
・心の解体――計算可能な心と不確定要素
といったテーマを今後掘り下げていきます(改変、追加削除あり)

 人は社会的な生き物がゆえに言葉と心を獲得した。前回は心は鍛えられるかというテーマで、息子の成長過程を題材に感情と知識の関係性を検証してきましたが、それを踏まえて今回は共通認識と普遍性について考えをまとめていきます。

 社会的という表現をより身近に表現するとすれば、それは「距離感」という言葉で表すことが出来るのではないでしょうか。ではこの「距離感」とはいったい何なのでしょうか。

 イーブンさんの記事を読ませていただき、改めて距離感という言葉の難しさを感じました。

“距離感が一緒に過ごす時間の多さ、 親密度がお互いのことを分かり合っている深さ で、いいですか? いや、逆か。 実は距離感がお互いのことを分かり合っている深さ 親密度が一緒に過ごす時間の多さ ですね?ん?どっち?🤔”

うっすら距離感の概念が分かりかけてきた人

 親密度は一緒にいてストレスにならず、むしろ楽しかったり、うれしかったりする関係性だということは共通認識といえると思います。では距離感がちょうどいいとかフィット、或いはマッチしている関係とは具体的にどんな状態を表すのか。これは人それぞれの見解があるように思えます。
 たとえば恋人と友達の距離感は違うという共通認識はあったとしても、恋人同士、友達同士でもそれぞれの距離感があり、例えば友達感覚の親子とか親子関係のような夫婦とか、距離感が実に多彩であると言えるでしょう。
 仮に「あなたは人との距離感がわかっていない」と言われたとして、そもそもそれぞれが考える「距離感」というものがあるとすれば、それはもう対処できない、調整できないようなものではないかと筆者は考えます。

 距離感という存在はみんな認識しているのにその正体はわからない。まるで幽霊です。大切だと思っても「いい距離感」とは具体的にどんな関係を示しているのか。怖いと思っても「何が怖いのか」が論理的に説明しにくい存在。

 放任主義や管理主義、やきもち焼き、甘えん坊や関白、いろいろな言葉があってそれを示すイメージは共通しているものの、線引きは難しく、また誰に対してもそうであるかも違う。親に対して、子供に対して、兄弟、友達、学友、同僚、仲間、それぞれの関係性にいちいち名前(区分)があり、その中に距離感は存在するけれどもイーブンさんの言葉を借りれば「うっすら」としかわからない(=言語化しにくい)。幽霊にも怨霊、地縛霊、悪霊、生霊、守護神、浮遊霊に幽霊部員(これは違うか)、いろいろあってそれぞれ区分はされているものの、怖いか怖くないかは人それぞれ。そもそも存在自体を認めない人もいるし、あれはいるけどこれはいないという人もいる。すべて脳のバグである、プラズマである、電磁波であると諸説が絶えない。

 前出のように、或いはこの手紙の中にあるように、筆者は距離感という言葉に苦い経験を持つ。

 一度だけ怒られたことがある。

 涙を流し始めた友人に「涙を流せば、心が落ち着く」と声をかけたとき、「そんなに簡単じゃないのよ。人の涙って」と言われた。怒っていたわけではないけれども、きっと距離感の問題であったのだろうと今はそう思うことにしている。簡単に寄り添うなということなのだろう。確かにそうなのだ。

【往復書簡】必然は偶然を装う

 ここでいう「簡単に寄り添うな」とはどういうことなのか。それは筆者とこの女性の関係性にあり、詳しくは説明しにくいが、音楽仲間、飲み仲間であり、友達といえるほどに互いを知ってはいるものの、それぞれの立場において、どういう距離でいるか、いたいのか、いるべきかに微妙なズレを感じている関係という意味になるのだけれども、それすら言語化としては不十分だし、確信が持てることでもない。
 ゆえに距離感とは自分で感じ、考えるものであって、何が正解かを答え合わせする、相手に距離感の差異を訴えても「わかった。じゃあ、どうすればいい?」と言おうものなら関係性すら壊しかねない。もちろんそうならない距離感なら大丈夫なのだろうが、それこそ「では大丈夫な距離感とは?」と千日手になるやもしれない。

 ある人気ロボットアニメのヒロイン格(ヒロインが複数いる)の女性が主人公にこう告げる。
「美しいものが嫌いな人がいて?」
「それが年老いて死んでいくのを見るのは、悲しいことじゃなくて?」

 主人公は答える。
「僕が聞きたいのはそういうことじゃなくて」

 この会話のシーンは、主人公が雨宿りをしているとき、水辺の白鳥が力尽きて湖面に落下するのをヒロインが「かわいそうに」とつぶやきいたのに対して「あの鳥のことが好きだったんですか?」と主人公が問う。そしてその答えが上記のやり取りになる。共通認識のズレが生じている。
 鳥の死を「かわいそう」と思うことはその鳥のことを好きだったに違いないと主人公は「好きだったのか」と問うてしまっている。実際に落ちたから「死んだ」とは確定していない状況だが、二人には特別な感覚の鋭さを持っており、おそらくは鳥が死んだことは共通理解している。
 問題はこの「かわいそう」の発言が鳥が落下し始めたり、苦しんでいる様子からの落下ではなく、元気に飛んでいるように見えてからの落下であったこと。主人公はその鳥のことをずっと見ていたから彼女が経験からもうこの鳥は死を迎えるのだと「予測していた」と鑑みて「好きだったのか」と尋ねている。
 一方、彼女は普遍的な価値観をもとに話を返す。美しいもの、その死を憐れむことは当然だと。そして二人が初対面である以上、距離感で言えば、「初対面の相手に対する距離感」ということになるのだが、普通は起きないような会話の流れによって二人が特別な能力を持っていること、そしてそれぞれが相手に対して「その疑い」をかけていることを表現している。
 この会話は「あなた、きれいな目をしているわね」とヒロインが告げてその場を去るのだが、その言葉には相手に対する「言い過ぎてしまったこと」で生じたズレを修正し、距離感を縮めた上で、自由奔放な彼女はおそらく「うれしくなって」雨の上がった野原をかけて行ってしまった。

 皆さんも経験があると思うが、初対面なのに「図々しい」と思う相手と「
初めて会った感じがしない」と感じることがある。つまり経験など関係なく、最初から距離感という存在が関係性を左右している。状況ではなく、相性といってもいいかもしれない。もちろん鋭い洞察力を持っている人は、相手のしぐさや立場、こちらの立場を考え、相手が何かよからぬ企みを抱いているのかを疑い、わずかな情報から「危険」であるかどうかを瞬時に判断できる人もいる。
 そして初対面の人と意気投合した場合は、妙な高揚感がある。これが人間が社会的な生き物であることの象徴とも言える。高揚感があるからこそ、まずは相手にマイナスなイメージを与えないために「礼儀作法」というものが自然に表れ、また笑顔(作り笑い、微笑)もそのためにある。

 共通認識と普遍性で言えば、「美しいものは誰もが好きだ。嫌いなはずがない」という普遍性はあるものの、何を美しいと思うのかという共通認識はあるのだろうか。これにはよく黄金律という絵画の表現方法があり、人が美しいと思う形にはある一定の法則性、規則性が存在している。テレビの長方形や絵画が正方形でない理由もそれになるのだが、果たして美しい鳥は美しいのであろうか。
 鳥が怖い、嫌いという人もいる。美しさは認めても怖い、嫌いはどうしようもない。だから「美しいものが嫌いな人がいるかしら」という問いは、いささか乱暴ではあるが、同時に「きれいな目をしている」とは自分は美しいものが好き、あなたの目はきれい、つまりあなたのことは嫌いではありませんという彼女の文法がそこにはある。距離感で言えばいきなり近くに寄ってくる感じだ。
 一方主人公はそういう距離感で初対面の人とやり取りをするのはあまり経験がなく、驚いてしまうし、同時に強く印象に残る。恋愛で言えば完全に彼女の勝利である。男が女に、女が男に関心を抱くのは普遍性といえる(今は性別に隔たりもないが)が、そこに共通認識がどれだけあるかといえば、意外と少ないのではないだろうか。

 さて、筆者は「距離感」を確かに図って日々生活をしている。相手にとっていやなことは何か、好きなことは何か、それぞれそれを相手に対してしたときにどんな反応をするのかを予測する。仕事上の関係、敬うべきと思っている人、敬愛、尊敬、嫌悪、嫉妬、妬み、競争意識、いろいろな関係や状態の中で「なんとなく」距離感を図り、言葉や態度を選ぶ。その選択肢の豊富さが「距離感をわかっている人」となるかどうかはわからないが、正直きりのない作業でもあり、人はオートマティックにそれができる相手「気兼ねなく付き合える人」「距離感がちょうどいい人」と感じ、そうでない人と比べるとストレスなく楽しい気分でいられる。

 人が人を求めることも選ぶことも普遍的である。そしてそこには必ず距離感というものが存在はしているが、それを思うがままにコントロールできるとは限らない。むしろ「距離感がつかめない」というのは「つかもう」としていることの表れでもあり、相手によってはその感情もくみ取って対処してくれる人も存在する。そのような人に甘えられる性格なのかそれを許せない性格なのかは人それぞれではないだろうか。つまりは「うっすらとわかる」くらいでちょうどいいのではないかと気づかされた。とはいえ、筆者は人のメカニズムを自分なりに解き明かしたいと思っている。これは業であると絵いるだろうし、いささか傲慢であると認識している。大事なことは試みることであって、たどり着くことではないと承知はしているものの、時に摩擦を生むこともまた致し方がないことだと考えている。

 最後にもう一つ失敗談を披露しよう。
 筆者は物書きの仲間が少ない。こういう場でコミュニケーションを取り合うこともあるが、リアルで会ったり、食事をしたりというのは一人、二人しかいない。その一人と以前こんな会話をしたことがある。
 LINEのやり取りで筆者はうっかり相手に対して「つれないなぁ」という言葉を使ってしまった。うっかりとはそういう馴れ合いのような付き合い方を相手が警戒或いは嫌っていることを知っていたのだが、気分でそういう言葉を使ってしまい、ひどく怒られたことがある。
 親しき間にも礼儀ありともそれは違う。「つれないなぁ」と相手に言うということは相手の態度を責めた言葉に相違ない。互いを高め合うことで成立していた良好な距離感もそうしたうっかりした言葉で関係性を壊しかねないことがある。
 いわゆる空気を読めない発言ではあるが、むしろ逆で空気を読んだが為、ここは「つれないなぁ」と返せば譲歩してくれるかもしれないという甘えを見せつけることで「高め合う関係」に違う関係性にシフトできるかもと瞬時に出た言葉なのだ。つまり読み間違えたのではなく、曲解をしたのだと反省をしている。
 何度かの「疎遠」を乗り越えて、今は良好な関係を築いているが、二人の共通認識は「お互い距離感を保たないと喧嘩になる」である。ではどう保っているのかといえば、精神的な高揚はほどほどに理知的な会話ができる距離ということになるが、それが正解であるかどうかは、果たしてどうなのであろうか。うっすらとしたこの感覚を頼りにするしかないということが、傲慢にならずにいられるのだと再認識した。

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