野芥子
アパートの玄関の前、そしてベランダの前には植え込みがあって、年末年始の改修で砂利で埋められてしまった。
ジブリ的には、そこで小さな虫たち、生き物たちのドラマが繰り広げられるのかもしれないけれども、ドラマチックなことど何もおきないのです。
この画像よりももっと前は、ビニールシートもなかったから、それはもうジャングルとまでは言わないまでも、いい感じにうっそうとしていた。
僕は部屋の前のその小さな生態系を眺めるのが好きだった。ダンゴムシ、ハサミムシ、ナベクジ、カタツムリ、てんとう虫……。
春夏秋冬繰り返される四季のドラマを僕は静かな観客として毎年楽しみにしていたのだけれども、町の映画館が取り壊されるが如く、それは突然でもなく、やはりなという感じで、いっそうされてしまった。
画面一番上、右側の建物がアパートから医療施設に建て替えられたときに、それは時間の問題だとわかった。
その建物との間は、やはり土が見えていて、うっそうとしてたのだけれども、こうして砂利で埋められた。4年前か5年前か。
でも、今はこうして野芥子が力強く自生している。これは僕が住んでいるアパートの植え込みから種子が広がった結果なのだろうけれども、なんともたくましい。
だから、僕のアパートの砂利の合間から、野芥子がこうして群生するのも時間の問題なのだと思う。
人間の思い通りなんてならないぞ。
などと言っているかどうかで言えば、そうではないのだと思うが、彼らは彼らのありようとして、ただ、そこに生きているのだ。
さて、僕はそんなことをここ最近考える機会が多く、前回掲載した地下鉄の少年の話でもそうだけれども、自分たちの存在やあり方について、少し改めるべきことがあるかもしれないと感じ始めていた。
そんな折――いや、そんなときだからこそ訪れる運命のような出来事は、ますますに僕を悶々とさせた。
過日、友達とのやりとりで、思わぬところからそのような話になり、ちょっとした口論というか、僕としては、思考の錯誤をどういう経緯でこうなったかという話をしたつもりだったのだか、彼女にはそれがどうにも納得がいかずに、結果的には会話を中断せぜるを得ないような流れになってしまった。
人間のおごりというのは、自然を思うままにできる錯覚という意味では、この小さな植え込みの生態系を見つめている僕にとっては、そのとおりだと思う。だからこそ、人と自然は山の神、海の神、大地の神といった人間以上の存在を作り上げ、そこに『戒め』という自己制御機能を搭載した神という想像上の畏敬の偶像を作り上げたのだと、僕は考えている。
これは神の存在を否定するのではなく、言葉を持って思考する人間だからこそ、神という存在を生み出した、或いは見出したのだという自然な発想なのであるが、その考え方自体がおごりであると言われてしまったようで、僕はすっかり抵抗してしまったのである。
はたしてそうなのかどうか。
ともに言葉が足りず、或いは余計なたとえ話が混乱を招いてしまったのか、本当に二人は真っ向から意見が違うのか。
或いはそうしたロジックの問題ではなく、価値の基準やもっと言えば、言葉の肌触りが違うのか。いずれにしても失敗だったとそのときは思った。
思ったなりに、その場で相手に合わせてしまうことの危険性も僕は認識している。違う物は違うでいいのだという関係性の前提を壊してしまっては、嘘の関係になってしまう。
僕は嘘は大事だと考え、彼女はそれを否定する。
僕は嘘を肯定して使いはしないが、嘘を用いずに人と人、すなわち人間社会が摩擦なく生きていけるかは疑問がある。社交辞令は必要だし、それが誇大すぎればまた違う摩擦を生むが、遊びが投げれば車のハンドル操作など危険極まりない。
誰もがF1レースをやっているわけではないのだ。
しかし、最初から嘘を肯定するやり方は、大きな危険も伴う。だからこそ、嘘は叱られるべきだし、嘘をついてはいけないという建前を捨ててしまっては、荒れるばかりである。
虚を持って善を為し、善を行って嘘を誠とする。
しかし所詮、嘘は嘘だという謙虚さを持ち、真を求めて虚を排するを是とし、虚を用いずとも善を為すように昇華させていくことを、僕はひとつの方法論として提示しようと思ったのだけれども。
いやいや、僕はやはり視野が狭いのだろう。
そんなことを野芥子を眺めながら考えておりました。
『野芥子』
コンクリートの建物に囲まれた
わずかな隙間
野芥子はタンポポのお化けのように顔を出す
可愛くもない
きれいでもない
でもその力強さに頭が下がる
つつましくもなく
健気でもなく
生きることにまっすぐだ
好まれることもなく
称えられることもなく
飾ることもない
野芥子は野芥子であろうとする
それが美しい
僕は僕であろうとする。
彼女も彼女であろうとする。
それでいいのだと思う。