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葬儀業界の闇と良心「ぼくが葬儀屋さんになった理由 冨安徳久」

心のこもった「お見送り」をするための葬儀社、ティアを興した冨安さんの自伝的、葬儀業界の裏話。ライターが執筆協力していることもあり、全編を一気に読み通せるような力のある文章・ストーリーテリングに心を打たれた。著者の生き様、熱い誇り、葬儀を通して生き方を真剣に考える姿勢に打たれて、思わず葬儀業界を目指してしまいそうになる(笑)。

一部では、著者があまりに自分をよく見せているとか、フィクションであるとか、批判もあるようだが、そうした点を差し引いても、本としての出来は素晴らしく、葬儀に対する熱い思いと同時に、業界の裏側を知ることができる良書だ。

葬儀屋としての誇り

著者は、18歳でバイトで入社した葬儀会社に魅せられ、葬儀を天職だと信じ、大学をやめる。ひたすら葬儀マンとして走り続けられたのは、最初に彼を指導してくれた藤田先輩の教えが大きい。

あるときには腐敗した死体を処理しなければならなくなり、現場で吐き気を催した。そこで、著者は藤田先輩に叱咤される。

「おまえ、気持ちが悪いのか?耐えられないか。触りたくもないか・・・。でもな、おまえ、この仕事やっていくって決めたんだろ。これもおまえが選んだ仕事の1つだ。通夜や司会のようなきれいなことだけが仕事じゃないぞ。人の嫌がることや面倒な仕事にちゃんと向き合えるような人間こそがお客様に心から感謝されるんだ。おまえいつも、人さまに感謝されるのがうれしいって言っていたじゃないか。きれいごとだけで心から人に感謝されると思っているのか!」(77-78)
「仏さんを自分の最愛の人と思うんだ。自分の最愛の人が亡くなったと思ってやれ!おまえは自分の目で見ているからそれができないんだ。おれは遺族の目で、その心で仏さんを見ている。おれはいつもそうしているから、どんな遺体を見ても嫌なものとは思わない。」(P78)

この出来事をきっかけにして、著者は、死体を気持ち悪いとは思わなくなる。心をこめてこの仕事に取り組めば、人間的に成長する素晴らしい仕事だと思えるようになったのだ。すっかり、ビリーフが書き換わった瞬間だ。

やがて藤田先輩は、がんで亡くなってしまう。著者は、別の場所で葬祭業を営んでおり、2年後に先輩の死去を知る。この先輩へのオマージュとして本書は書かれている。

生活保護者の葬儀は儲からない!

著者が病院営業を行っていたときに、知り合った婦長さんご夫婦に関するエピソードは心温まるものだ。最初は、一社独占で理事長の親戚の葬儀社に牛耳られていた病院だったが、著者が足繁く通い、霊安室を掃除して帰ってくる地道な営業努力を続けるうちに、婦長さんが仕事を回してくれるようになる。

この婦長さんも後にガンで亡くなってしまうが、著者に向けて書いた遺言状が発見される。著者の陰ながらの働きや理念を評価して、病院の葬儀をまかせていたたことがわかる。遺言状にはこう書かれていた。

「患者さんの中には生活保護を受けておられる方や経済的に困窮している方もおります。そのために病院にもソーシャルワーカーがいて、ご相談に乗っております。そんな方がなくなると、ほかの葬儀社だと、「それは役所に言ってくれ」とか「個人葬儀社に任せるといい」とか言って、受けてくれませんでした。富安様が出入りするようになってから、損してでもやってくださっています。会社はきっと儲からないから富安様を責めるようなこともあって、店長として辛い立場におなりでしょう。」(P177)

感動的なエピソードは、本書に譲るとして興味深いのは、生活保護者の葬儀に関する、葬儀社各社のスタンスだ。

著者は、理念をもって、人の立場や背景で、人の死を差別しない葬儀を行い続けていた。実は、当時は、こういう葬儀社は少なかった。やがて、著者の会社にも転機が訪れることになる。新年度の会社の方針を打ち出される店長会議の場にて、生活保護者の葬儀に関しては、今後は扱わず、病院から自宅への搬送料だけをもらって、他の葬儀社に回すことになったのだ。

著者は、この方針に表立って、何度も反対する。人の死を差別することは許されない!という熱い思いをぶつけ続けるが、利益優先のビジネスモデルの中で、著者の意見はだんだん通らなくなる。ここがサラリーマンの辛いところだ。

「生活保護を受けている人が亡くなると、自治体から二十万前後の葬儀費用(自治体によって異なる)が支給される。引き受けた葬儀社はその金額で葬儀を行うことになっている。確かに葬儀社にとっては、あまり利益の出ない仕事である。

しかし、病院側が患者の経済状態を考慮して葬儀会社を選ぶということはありえない。指定葬儀社に順番で連絡しているだけのことである。私たちは病院の依頼を受けて、自宅まで搬送して初めて、実は高齢の夫婦二人暮らしだった、あるいはひとり暮らしで生活保護を受けていたことがわかる。この新方針では、それを承知で「搬送料だけいただいて葬儀を受けずに帰って来い」と言っているわけだ。」(P180-181)

著者の時代の葬儀費用は平均300万前後だったが、生活保護者の葬儀は、とても葬儀社としても利益の出ないものだった。同じ手間が求められて、なおかつ十分の一以下のお金しか受け取ることができない。これは、葬儀社にとっては、美味しくない仕事なのだ。現実に、今でも大手の葬儀社は、生活保護者の葬儀を断るとも聞くことがある。

病院から自宅への搬送料金だけでも3万~5万かかるのだが、自宅に送り届けられ、そこで放り投げられて、自分で葬儀社を探してくださいと言われる遺族の気持になると辛いものがある。そこから自分で葬儀社を探し出さないと行けないのはとても困難だ。

とりわけ、お年寄りの遺族なら、インターネットもあまり使えないかもしれない。タウンページを頼りに、有名な葬儀社に電話しても、どこでも、冷たい扱いを受けて(お金にならない人は、客ではない?)故人を亡くした痛みと共に、この世の冷たさを感じるだろう。

著者は、他の葬儀社は、どういう対応なのだろうかと思い、各社へ一般人を装って電話をかけるが、どこもだいたい同じ対応。こうなると、どこへ転職しても、同じジレンマを抱えることになると悟る。これが、直接的には、独立を考え始めるようになったきっかけだった。

やがて、著者は雇い人としての葬儀社に限界を感じ、自分の理想の葬儀を行える葬儀屋を起業するようになる。

葬儀社のボッタクリ体質への憂い

一度、葬儀社を辞めることを考えるようになると、葬儀業界特有の「闇」に気がつくようになっていった。(それまでは、18歳でこの道に飛び込んでからプロとして邁進することに精一杯で、葬儀業界がどのように見られているのかをあまり意識しなかっただろう。)

当時の名古屋の葬儀の平均は300万。最近の、葬儀平均額は130万くらいだったようですから、ずいぶん、葬儀業界のデフレが進んでいる。それでも、十分高いが・・・・。

やがて、著者は、葬儀の価格が本当に適正なものだろうか?と考えるようになる。葬儀が高額になる理由は、喪主を始めとした遺族にほとんど知識が無い、お上りさんマーケットだからだ。著者は、この業界は何かが間違っているのではないかと考えるようになる。

「この業界は何かが間違っているのではないか・・・。そんなことを思い始めて業界を見回してみると、その会社に限ったことではなかった。すべてとは言わないけど、ほとんどの葬儀社が同じだった。どこも、より多くの利益が出る葬儀を優先し、顧客の求めているサービスとは何かについて考えることはなく、きまりきったスタイルで余計な手間はかけないのが当たり前、会社の規模が大きくなればなるほど、利益の少ない葬儀は相手にせず、利幅の大きい葬儀を優先する。」(P190)

葬儀社裏マニュアルの存在

これは内部告発の一種だが、以前の葬儀社には「裏マニュアル」とも呼ばれるものがあったという。

「今でこそ葬儀価格をオープンにして、予算に合わせて見積もりをとることもできるようになってきたが、この頃は葬儀の主導権は完全に葬儀社が握っていた。葬儀の依頼を受けた担当者がまず何をするかといえば、その家の門構えを見る。そして車を見る。立派な門があり、大型の高級車があれば合格。故人の生前の経歴を聞き、喪主の勤務先や役職を聞き、大手企業の管理職などであればなお良し、といった喪家をランク付けするような「裏マニュアル」さえ存在していた。」(P189)

数百万の買い物は小さいものではない。高級車を買うつもりなら、何社にも見積もりをとり、条件を徹底的に詰めて、担当者との相性を確かめる。しかし、葬儀となると、故人が亡くなった悲しみの中、数日以内にすべてを決定しなくてはならずに、気が付くと、まるで高級車並みの費用がかかっている。

葬儀会社にとってみれば、物販のように定価や仕入れ値がある商売ではなく、究極的にはサービス業だ。祭壇などもレンタルだから、数回葬儀を行えば、簡単に元はとれてしまう。担当者の考え方次第で、価格が倍になることすらあるのだ。

以前、布団の飛び込みセールスをしている猛者が、相手との商談の中で、価格を自由に設定しているという話を聞いたことがある。これは中東を旅すると、経験するかもしれないけど、葬儀で、こういうことはやめてほしい。(参考:壮大なボッタクリ日記【書評】「アジア・イスラムのお金がなくても人生を楽しむ方法「ハビビな人々」」中山茂大

これまで葬儀業界も同じような傾向があったのだ。閉鎖的なマーケットは確かに問題。(近年では、イオンのお葬式やシンプルなお葬式などのマッチングサービスの登場により、葬式のプランの透明化・パッケージ化・デフレが進んでいる。)

昨今、ぼったくりの葬儀社批判は非常に多いが、一概に葬儀業界だけを批判するわけにはいきません。葬儀業に対する偏見や無知が今でも根強く、事前に葬儀に関して話し合いをする人は多くない。葬儀業界が、閉鎖的なマーケットになっている、ひとつの要因は、消費者の側の無知といえる。

何にどれくらいの費用がかかるかを事前に調べておく、または、医療におけるセカンドオピニオンのように複数の意見を聞く(見積もりを取る)ことで、「適正な価格」を知ることができる。競争の無い一社の見積もりだけなら(見積も出さない業者も存在したようですが)どうしても、言い値になってしまうのは当たり前。市場競争が無いというのは怖いことだ。

葬儀業界の内部から出てくる、こういう本は貴重だ。いくぶん、自分自身を感動的に(きれいに)書きすぎているという批判はあれど、実際に葬儀業界の内部で起こっていることを垣間見ることができる。島田氏の「葬式は、要らない」も読んだが、葬儀業界の深い闇が深すぎて萎える。

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大人のADHDグレーゾーンの片隅でひっそりと生活しています。メンタルを強くするために、睡眠至上主義・糖質制限プロテイン生活で生きています。プチkindle作家です(出品一覧:https://amzn.to/3oOl8tq