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生きた証を残したいという根源的な欲望「死ぬときに後悔すること25 」大津秀一
終活には、葬儀という実際的な準備だけではなく、死というゴールを見据えてどう生きるべきなのかという「心の準備」が深くかかわっている。
今日、紹介する「死ぬときに後悔する25のこと」を書いたのは、緩和医療の専門医、大津秀一氏だ。1976年生まれで、まだ若い(日本最年少のホスピス医)。1000人以上を看取った経験から、人生のエンディングにまつわるたくさんの著書がある。今回の場合は、死に面した方が共通で口にする後悔の感情にフォーカスを当てて、後悔しない生き方のためのアドバイスを与えている。
レビューを見ると、著者が若すぎるという批判もあるが、私は一概にそうは言えないと思う。ホスピス医として1000人以上の死を看取った医師のエッセイであり、それは単なる30代のサラリーマンの死生観とは違う。そんな経験をしている人は、それほど多くないだろう。自分が知ることのできない世界を垣間見る助けとなるのが読書であり、とりわけ「終活」に関してはそうだから。
豊富な実例と、心に迫る経験談を通して、いかに死ぬか(いかに生きるか)を教えてくれる良書だ。大津氏が挙げている25の後悔の中から一つを選び出して考えてみたい。多少、重たくなるけど、私自身の最後も考えながら書いてみた。
自分の生きた証を残すこと
著者が挙げている一つの後悔は「自分の生きた証を残さなかったこと」だ。それとは対照的な例として、この本の中では、17歳で亡くなった少女が残した1枚の手紙を紹介している。それは病院の医師や看護師にあてた感謝・そして、激励の手紙だ。その手紙を見るたびに、医師や看護師は、改めて命に向かい合うこの仕事の価値を感じ、仕事を行う意欲を高めているのだ。
「何かを残そうとすること、自分という存在を作品を通して表現しようとすること。これは先に書いたように、非常に労力も要り、だからこそ病気をしていたり、あまつさえ死期が迫っているような体力が衰えた状態では、なかなかそれになすのは難しい。けれども一方、証を残そうとすることは己の生命を奮い立たせることでもある。生命は朽ちても、その残したものはその先にも生きる。それを感じるとき、人の力は増すのである。」(P184)
「死期が迫っても後悔しないように自らが生きた証を積極的に残そうとすべきである。また、その行為が後の人々の力となるのである。誰かの人生はその人に固有のものであり、他者がそこから学びや気付き、そして癒やしや勇気をもらうことも稀ではない。自らの後悔が減るばかりか、他人の人生の苦しみを減らしてしまうかもしれない。生きた証を残すことは、かようにも良きものなのである。」(P190)
引用:死ぬときに後悔すること25 (新潮文庫) 大津 秀一
誰かの人生にインパクトを残すことができる。考えてみると、それは、生きている意味そのものだ。
自分の生きた証を残すことは、人間にとって固有の強い感情なのではないか。トイレの落書きから、出版される本まで、すべての痕跡は「俺はここで生きたんだ」という強い叫びととらえることもできる。人間は、存在に「意味」を求める。今、自分が行っていることが、誰かの記憶に残り続ける。誰かを支え、誰かの役に立つ、心を動かし続ける・・その確信が人の存在を支えている。
「僕の死に方」と生きている意味
このことを実感したのは、41歳で急逝した流通ジャーナリストの金子哲雄さんの「僕の死に方」を読んでからだ。
金子さんは、死期が一か月に迫ったころに、自分の半生と、死後のプロデュースについて克明に記録していく必要を感じる。これまで、賢い消費、賢い選択を茶の間の主婦に訴えてきた金子さん。今や、一人の人間が「どのように死ぬのか」を克明に描きだすこと、それこそ、自分の最期の仕事であると決意したのだ。
病魔に侵されつつも、仕事をしているときは、生きる気力がわき起こってきたという。事実、「僕の死に方」の原稿を書き終えて、数日後に金子さんは亡くなった。金子さんは、確かに自分の生きた証を残した。最期に行いたいことは、生きた証を残すこと。
おいしいものを食べたり、異性とつきあったり、遊んだり、こういう「欲望」には限度がある。死を間近にした時、人は、そういうものに、もはや興味・関心を感じなくなる。「生」や「死」の前に、それはあまりに軽すぎる欲望なのだ。
しかし、「自分の生きた証」をこの世に残すこと。これは、人が生きるうえでもっとも強い「欲望」なのかもしれない。
手紙を残すこと
著者は、ひとつの方法として「手紙」を挙げている。上述の17歳の女子のように、手紙は人の心を動かし続ける。その人が、もうそこにいなくても。遺すことを考えた「手紙」は、もっとも深いところにある「欲望」を満たすものになるかもしれない。
私が、日々、コンテンツを作り続けるのも、ネット上に自分の文章や動画や情報をアップし続けるのも、つまるところ、生きてきた証を残したいという動機なのかもしれない。自覚していなかったけど。私が死んでも、ネット上にアップされているコンテンツは生き続ける。これって、実は「手紙」か。
自分の心を動かした情報が、これからやってくる何人、何十人、ときに、何百人の心を動かすかもしれない、その動機が、私を駆り立てる。多くのコンテンツメーカーたち(作家・小説家・漫画家・映画監督)、つまるところ、同じなのかもしれない。ある意味で、「永遠性」へのあこがれがあるのかもしれない。自分の命の長さよりも、ずっと長く続いていく可能性のあるものをコンテンツの形で世に残したいのかもしれない。
まさに、記憶は愛なのだ。
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