母の態度と視線
小学六年生の夏休み、私は11歳。
従姉妹たちと祖父の家で遊んでいた。
関東から帰省してくる従姉妹たちや地元にいる従兄弟たちが集まり、総勢8人の子供と賑やかに夏休みを過ごすのが、恒例だ。
神社で鬼ごっこやかくれんぼをしたり、祖父の古いレコードを引っ張り出してきて、走れコータローの音楽に合わせて部屋中を走り回ったりした。
無邪気だった。
自分の家で走り回ったり、友達とふざけあって騒いだりすると母親がヒステリックに叱るので、自宅に友達を呼んで遊ぶ、ということをしなくなっていた。
それに、この頃はいじめもあって一人しか友達がいなかったのだけど。
だから、同年代の従姉妹たちと祖父の家で体を思いきり動かし弾けて遊ぶことができるのは楽しかったし嬉しかった。
それに私の母親はこの従姉妹たちを叱ることをしなかった。
その時はなんでだろうと不思議だったけど、今ならわかる。
旦那の妹(小姑)たちの子供だからだ。
嫁の立場として考えると、気を遣っていたんだろうなと思う。
そんなこととはわからない子供の頃の私は、この従姉妹たちと一緒にいると母親のヒステリーから少しの間解放されていられるので安心して過ごすことができていた。
それに、祖父の家に母親はあまり寄り付かなかったので、好都合だったのだ。(母親からしても、旦那の実家には長く居たくないものだろう)
*
「ねぇねぇ、きんにくちゃん、もうアレきたの?」
と、ひとつ年下のおませな5年生のアヤコがこっそり訊ねてきた。
保健体育の授業で習ったばかりの生理の知識を得意気にひけらかしてくるアヤコ。
「まだよう。友達には、なった子いるけどね。」
友達と言っても1人しかいない同じクラスのユウコを思い浮かべながらそう答えた。
ユウコは胸も大きく膨らんできてて、どことなく女性な部分を垣間見ることができる。ユウコみたいにおっぱいが出てこないと、初潮と言われるものはこないんだろうなと、ガリガリのぺたんこ胸の私は勝手にそう考えていた。
「へぇ、そうなんだ。アレになるとおなか痛いんだってね。でも赤ちゃんができるようになるから、それの準備なんだって。」
ペラペラと得意気に喋ってくる。
”私の方が1つお姉さんなんだよ、それくらい授業で習ったし知ってるよ!”と言いたかった言葉を飲み込む。
お姉さんぶって言い返しても、おしゃべりで口が達者なアヤコに太刀打ちは出来ないことがわかっているから。
「この話は男子に聞こえないようにしなきゃね!」
私の弟を含めた従兄弟達がプロレス技をかけて大はしゃぎしているのを、ガキねと鼻で笑いながらアヤコは言った。
*
翌日も従姉妹たちと遊んでいた。
私がソファに座りアヤコが床に座った。
テレビを見ていたと思う。
何を見ていたかは忘れたが、テレビを見て足をばたつかせ私はゲラゲラ笑っていた。
足癖の悪い私のスカートの中が見えたらしく、アヤコが耳元まで来てこそっと言った。
「きんにくちゃん、パンツが……赤い。」
アヤコったら何を言ってんだろうと思ったが、背中を丸め自分の股を覗きこむと赤い血のような滲みが見える。
「えー…なにこれぇ…」
自分に起こっている変化がショックなのと血の色が怖すぎて両足をぎゅっと閉じ、その場に正座をする。
さっきまでの元気はどこへ。
動揺してソファーに正座したまま動けなくなる私に、アヤコは言う。
「ねぇ、ひょっとしてアレなんじゃない?昨日言ってた。そうだよ、絶対!」
「違うよアレなんかじゃないよ!」(何を根拠に違うと言ってしまうのか自分でもよくわからなかった。)
とアヤコに言い返しパニクっていると、年下のくせに私よりずっと冷静なアヤコは、
「大丈夫、ちょっと待ってて。私お母さん呼んでくるから。」
そう言って自分の母親(私にとっては叔母)に伝えに行ってしまった。
一気に気持ちがしぼみ、不安が押し寄せる。
”なにこれ、生理ってやつなの?ナプキンするのかなぁ。あんなおむつみたいなのやだなぁ…。”
と泣きそうな気持ちになる。
でも心のどこかでは、少し大人になったような気持ちもあってどう表現して、どういう顔をみんなの前でしたらいいのかわからなかった。
間もなく、叔母(アヤコの母)がやってきた。
「大丈夫よきんにくちゃん。ほら、立って。トイレ行けるかな?」
叔母はにっこりし小声でそう言いながら、ナプキンを手渡してきた。
「うん。」
ナプキンを貰ってトイレに入った。
授業で習ったとは言え、現実に自分の身に起こるとびっくりする。
それにナプキン、どうやってつけるのさ?
そんなこともわからないのだ。
どうしても、すぐそばにいる叔母には聞けなかった。
叔母より母を頼りたい気持ちが大きかったから。
それと同時に、こんな時になんで私のお母さんはそばにいないの?と一気に心細くなる。
なんとかナプキンをあてトイレを出たら、叔母が待っていた。
「きんにくちゃん、大丈夫?ちょうど今、着替えがないからね、いったんきんにくちゃんの家までおばさんが送るわね。いったんお着替えしたらいいわ。お母さんにはさっき電話で話してあるから。さぁ、行きましょう。」
この叔母の計らいにほっとした。
母にすぐ会えるし、初めての生理で不安だったし、なによりわからないことを母に聞くことができると安心したんだ。
その上このおまたの違和感、ごわごわしているがこれで正解なのだろうか?ということも確認したい。
そして車の中で叔母は、
「きんにくちゃんおめでとう。今夜はお赤飯よ。お祝いだからね。
おばあちゃんがお料理作ってくれるわよ。みんなで食べようね。」
とニコニコしながら言っていた。
私は心の中で
”へぇ、初潮ってお祝いするんだ。私の誕生日でもないのに、変なの。”
と思った。
くすぐったいような恥ずかしいような、でも嬉しいような複雑な気持ちで。
叔母がこんなに喜んでる。
母はもっと喜ぶのかなと思いながら車に乗っていた。
*
家に到着し、母と叔母が今夜の段取りを話している。
その間に私は下着を換え、服を着替えていた。
「今夜は、みんなでお祝いだから、後でお母さんと一緒においでね。
叔母さんは先に帰るね。」
叔母は、私にそういうと車に乗って行った。
私は母に、聞く。やっと聞きたいことが聞ける。
叔母には遠慮して聞けなかったことを。
なぜこんなに母に確認することにこだわっていたかと言うと、保健の授業の教科書に挿絵があり、お母さんと娘が楽しそうにナプキンの使い方を話してる様子を描いてあったのだ。
”いいなー。もし私が生理になったらこんな風にお母さんと話したいな”と想像してたから。
憧れがあったのだろうなと思う。
母に向かって新しいナプキンを広げて
「ねぇナプキンってどっちが前で後ろ?裏表?」
と聞いてみる。
しかし
「ああ、それでいいよ。」
と、ろくにナプキンを見もせず、素っ気ない。
その上、まるで汚らわしいものを見るような冷たい視線で私を見ていた。
その瞬間、母を怒らせてしまったんだと、ぞっとしたのを覚えている。
叔母が喜んでくれたテンションと、母のテンションは全く違っていた。
母は、嬉しくないんだ、と次の言葉で察した。
「生理が来たからって赤飯炊いてお祝いするなんて、まるで見世物みたい。」
と言った。
見世物、その陰気な表現を聞いて、
”やっぱり、生理になっちゃあいけなかったのか…。アヤコとコソコソ生理の話なんかしたから、私は生理になってしまった。バチが当たったのかな……。”
と、私は私を責めた。
*
その夜、祖父の家で宴会は始まったんだと思う。
思う、というのは記憶がないからだ。
母も私もみんな勢ぞろいしていたはず、だろうが記憶がないのだ。
宴会が大好きな親戚たちだったので、何かにつけては酒盛りが行われた。
この日も例外なくそうだったはずだ。
なのに、記憶がない。
ただ思い出せるのは、重箱に入ったお赤飯をお茶碗によそったシーンと
「きんにくちゃんのおかげでまたお酒飲めるわ!あはははは!ありがとな!」
といつものように豪快に笑う大きな声の叔父の言葉だけ。
どうして思い出せないのか、わからない。
よほど何かがあったのか、それともなかったのか。
*
50歳になり閉経を迎えて、初めての生理にオロオロしたあの日を思い出した。
40年近く生理と付き合ってきて、振り返ることがなかったスタート地点。
あの時の母親の態度と視線から感じたのは”生理は禍々しい不浄なもの”と子供の頃は考えていた。
小さい頃は母親とは勿論、他人とも生理の話をしてはこなかったし、タブーだと思っていてできなかったんだ。
大人になり、生理とかホルモンとかはとても大切なものであることを知り、少しづつ人と話せるようになるにつれ、不浄なものと言う意識は薄れていきやがて忘れていた。
あの頃の母親の年齢をゆうに超えた私は、母の当時の状況を想像してみる。
37歳で嫁の立場。
旦那の3人の妹達、その旦那達、その子供達、そして舅と姑。
皆で集まるとなれば、嫁は大変だ、察するに余りある(笑)こんなの私はヤダー。
母も表面上は上手くやっていたのだろう。
子供から見ても叔母たちと母は仲良さげに感じていたから。
でも、内心どうだったのだろうな。
鬱積したものが子供の私に向けられたのかなとも思えなくもない。
子供の頃の私が感じた初潮に母親から突き放される感じ、あれはホント可哀想と思うが、同時に母も大変だったろうなと思いを馳せることができる。
ほんの少しだけど私にも余裕が見える。
これは年齢を重ねたからだろうか。(だからと言って母親の態度は解せないが)
今の今まで、気にもしなかったこと。
蓋をしていたこと。
蓋を開けたら開けたで、思い出せないことがある。
なんなんだろう、このパズルが欠けたままの感じ。
なんだか気持ち悪いなぁ。