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刹那的に生きる

向こう見ずな生き方、危なっかしい生き方をしている人に昔から魅力を感じることが多い。彼らは、いい意味で自分の衝動に正直に生きている。音楽活動にハマって授業にこなくなるとか、パチンコで生活費を全部溶かすとか、ざっくり言うと世間でいう”順当なルート”から逸れていく人たちのことだ。

きっと、自分も本当はそうしたい気持ちがどこかあるけれど、出来ないから憧れる気持ちがあるのだと思う。自分はよく言えば計画的な人間、悪く言うと打算的でつまらない人間だ、という自意識がある。

行動に対して、常に理由を求めてしまう。
目的のある行為に縛られている。
「これって意味あるのかな、時間がもったいないな。」
という考えがよく浮かぶ。
コストパフォーマンス・タイムパフォーマンスを考えがち。

無目的の魅力

國分功一郎さんの本は好きでよく読む。
『暇と退屈の倫理学』がとても面白くて、
今回はその続編?として書かれた『目的への抵抗』を読んだ。

コロナ禍での行動制限の異常性

コロナ禍において行動を制限する政策が簡単に受け入れられている世界の状況に、哲学者のジョルジョ・アガンベンが警鐘を鳴らした。ただ単に生存していること、生命として存続していることだけが価値として認められているのではないか、と危惧している。

要点は
・人間にとっては、移動の自由こそが自由の基礎である。
「生きる」ことと「生存する」ことは違う。

自由を守るために自由を制限しなければならないのは
大いなる矛盾である。と。

必要・目的・贅沢とは

「浪費」の対象は物であり、「消費」の対象は観念や記号である。
「浪費」には終わりがあり、「消費」には終わりがない。

現代の消費社会では、みんな"情報”という記号を消費しているだけ。「流行りの店にいった」だったり、「観光スポットで写真をとった」だったり、「インスタグラマーが紹介している物を買った」だったり。情報を消費している限り、豊かさや充実感を感じることはなく、情報を集める果てしないゲームに放り込まれることになる。

逆に、贅沢を求めることによってこそ社会が変わる。贅沢の本質は、必要と目的から逸脱していること。贅沢は何らかの目的のためにするものではなく、それがよろこびをもたらすから人は贅沢をする。

必要と目的に還元できない生こそが、
人間らしい生の核心にある。

資本主義社会は、消費社会と相性がよい。だからこそ、人々を記号消費に留めておこうと「消費こそが贅沢をもたらす」と消費者を説得し続ける。記号消費ゲームから早く抜け出そう。

自由な行為とは

人間らしく生きる
=贅沢に生きる
=必要と目的から脱する
=動機付けや目標から自由になる

=行為を何らかの目的のための手段とみなすようなことのない人生

何か行動をするときに
「こういう動機でやっています」
「この目標を達成するためにやっています」
とならないような生き方。

目的を持った生き方を捨てろ、といいたいのではなく、目的とか手段から離れたところにある「遊び」が喜びや充実感を与えてくれるよ、と。コロナ禍での”不要不急”な活動にこそ、目的を越えた経験がある。行動制限が解除された今、失われていた「遊び」を回収しに行こう。

まとめ

行動に対して、目的や動機を考えることが多いし、「なぜやりたいの?」と行動の理由を人に問われることも多い。

目的や動機に縛られない行動、単純に「好きだから」「楽しいから」「幸せだから」やっている行動を大切にしたい。

旅をするにしても、理由を求めすぎないことが大切かもしれない。
「ただ行きたいから、行く」
それだけで十分でしょ。

もっと、刹那的に生きていいんじゃない


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