『ミトンとふびん』を読んで -武蔵美通信 文学 課題1-
『ミトンとふびん』は6つの短編小説からなる作品だ。
喪失の痛みを抱えて生きる人々を題材にした作品でありつつも、纏う空気は絶望ではなく希望。だから後味はほろ苦くも爽やか。
「なんということもない話。
大したことは起こらない。
登場人物それぞれにそれなりに傷はある。
しかし彼らはただ人生を眺めているだけ。」(p.251 あとがきより)
「彼らはただ人生を眺めているだけ。」どういう意味だろう。
現実の世界を生きる私たちも、皆なにかしらの事情、傷をもっている。多くの人はいくつかの段階を経てそれを受け入れ、ただ生きている。
ある意味では人生は傷そのものと言えるのかもしれない。私たちはいずれ必ず死ぬというのに、痛くて愛おしい記憶を作り続ける。大人になるにつれて、人生とはそういうものなんだと諦める。言い換えれば、受け入れる。
諦めるというと悪いことのようだけれど、そう悪いことばかりでもない。勝手に背負い込んだ肩の荷が降りるということでもあるから。
六つの女性は短編の主人公は皆女性で、しっかりと女を享受しつつも、素直でさっぱりとした性格だ。それ以外の登場人物を見てみても、嫌な人は出てこない。
それにはこの物語があくまでも当事者たちの物語であることも関係しているように思う。世間一般意見の代弁役みたいなおせっかいエキストラがいない。
これも爽やかな読了感に一役勝っているのかもしれない。
こういう飾り気のない文章を小説として編み上げるのって、一見簡単そうに見えてすごく難しいのではないだろうか。肩肘張らずにありのままの自分を曝け出すような気持ちで書くことができなければこの文章は生まれないだろう。
著者の紡ぐ作品には、素朴さとエロスが同居している。そこには物語を物語たらしめるやりすぎた飾り気がない。だから彼女の小説は何処までもリアル、まるでノンフィクションだ。
私たちが毎日をただ生きていく中で感じた小さな感情を率直に、かつ美しく紡ぐ。そのことにかけて著者は類稀なるセンスを持っている。
「いつか憎たらしいに変わりそうな熱いかわいさではない。もっと、盆栽のような、庭石のような。」(p.112)
愛と憎しみは紙一重というが、盆栽や庭石がどう転じようとも憎しみには結びつかないだろう。
やわらかな春の日差しのような、全てを包み込む愛情がこの比喩表現から伝わってくる。
「人格なんか見てくれないことが気持ちいい。そんな気分だった。」(p.54)
母を看取り傷心中の主人公が、旅先で男性に、小さくて子ねずみみたいだから好きだと口説かれた時の主人公の気持ち。
わかるなあと思った。疲れてしまった時、自分に自信が持てない時、人に優しくできない時、人格なんか関係なしにたまらなく好きだと言ってもらえたならば、どれだけ気が楽になることか。
彼女の小説を読むと、自分の中の記憶や感情が呼び起こされる。
それどころか、無いはずの記憶や感情すらも呼び起こされるような錯覚を覚える。
「きっと私のいない間、思うぞんぶん好きなラーメンでも食べたのだろう、上機嫌だった。」(p.196)
主人公は旅先で不倫をした翌晩、寂しくなり旦那に電話をかける。夫が電話口に出た時に主人公が抱いた印象がこれだ。
主人公は夫の声を聞いて涙声になってしまう。罪悪感ゆえではなく、安心感ゆえに。
なんて甘え上手で都合が良くて強かなんだろう。女の人ってそう言うところあるよね、なんて言ったら角が立つかもしれないけれど、やっぱり女と男は別の生き物なんだと思う。男性作者の作品を読むと、作中の女性像に違和感を持つことが比較的多い。私は女性だからわからないけれど、逆も然りなのかもしれない。
この作品の作者と主人公たちの性別が一致しているためか、少なくとも私がこの類の違和感を持つことはなかった。自分がよく知る土俵で戦うからこそ、こんなにもディープに描き切れるのだろう。
6つの短編集の中の2つの作品にはゲイが登場するが、昨今の多様性に配慮して仕方がなく登場させました。と言う感じではない。マイノリティであることすら感じさせないくらいスマートに、当たり前に登場する。著者がフラットに世界を捉えているからこそなせる技だろう。
6つの短編小説の舞台はそれぞれ違い、国内から海外まで幅広い。さまざまな土地の空気を感じられることも、この本の魅力の一つであるのではないかと思う。
「「ああ、もう時間もないのにお母さんにおみやげを選ばなくちゃ、どうしよう!」
失くしてみるとよくわかる、それが家族がいるという幸せの、本質なのだ。」(p.22-23)
著者の物事の本質を捉える飾らない言葉はあなたの心の琴線に触れる。
/武蔵美通信 文学 第一課題 /評価A
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?