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自由への教育 ~自由って何?~

シュタイナー教育を一言で表現するワードとして“自由への教育”というものがあります。ここで早速壁にぶち当たってしまうのですが、そもそも“自由”とは何なのか。もし「あなたにとって自由とは何ですか」と問われたら…その質問に答えるのは中々難しいことのように思えます。私が答えられるのは“好きなようにできる状態”“何事にも縛られない”といったところでしょうか。これでは何だか物足りないような感じが否めません。
もし“何にも縛られない”ことが自由だとして、誰にも関わらずひたすらに1人の世界にこもっていることが“自由”かと言われれば何かが違うような気がするし、“自分の好きなように”とわがままの線引きとは何なのかという疑問も出てきます。
いずれにしても、“自由”は望ましいことであるというのは多くの人の共通認識であると言えそうです。
一方で、「赤信号みんなで渡れば怖くない」というジョークには、全てを自分で決めるよりも周囲の判断に身を任せる気楽さが表現されています。
『自由からの逃走』の著者であるフロムは、自由には不安がつきまとうと述べています。彼は、自由による不安感に耐えかねて自分が寄りかかれる権威に屈してしまう“逃走”が招いた最悪の結果がファシズムであるとも語っています。そのことを踏まえると、自由とは少々厄介な概念であり、中々定義が難しいということがわかってきます。
シュタイナーは、「私たちは生まれながらにして自由な状態にあるわけではない」と語っています。そのことを大前提として、シュタイナー教育は「不自由な状態にある私たちがいかにして自由を獲得できるか」という問いから出発しています。彼は“自由”とは“自分とは何か”を知ることで初めて獲得されるものであると言っています。
私たちは「○○したい」「○○せねばならない」という2つの衝動を持っています。
例えば(私だったら)
前者「ケーキが食べたい」「心ゆくまで寝たい」
後者「痩せなくてはいけない」「早起きしないと」
といった具合。
この2つの衝動の狭間に葛藤があり、
「ケーキを食べたいけど痩せなくてはいけない」
「もっと寝たいけど起きないと」
ということはしょっちゅうです。
ですが、「○○したい」と「○○せねばならない」という2つが融合するようなこともあり、
「試験に合格する為に課題曲を練習する」ということを越えて、「その曲を自分の手で表現したいという気持ちから懸命に練習する」といったような、
「したい」と「せねば」の境界が溶けて合体する幸福な状態があります。その状態の中に“自由”を見出だすことができるとシュタイナーは語りました。
彼によると「○○せねば」は日常的な範疇のことだけではなく、人生において「なさねばなはないこと」をも指しています。人は生まれる前から今回の人生のテーマを決めていて、それを言い換えるのなら“天命”“使命”“天職”ということになります。自分の“天命”を知り、しかも「それをしたい」という自分の意思を持って行動できるということがシュタイナーの定義する“自由”です。
「あるべき自分の姿」を自覚し、自分の人生の課題に真摯に向き合うとき、それは社会をよくすることにも直結します。したがって、シュタイナーの言う“自由”は1人1人の問題ではなく“社会”というもっと大きな視点に開かれているということになります。そしてシュタイナー教育は子どもたちが“自由”を獲得するための下準備なのです。
具体的にシュタイナー教育に入っていく前に、シュタイナーのいう“自由”とは何かというところから始めなくてはならず、まだまだほんの入り口で苦戦している感がありますが、それと同時に彼の構築した“自由への教育”にますます興味が湧いてきました。
“自由への教育”を志すのであれば、その指導者自らが“自由”を実現出来ているのか、少なくとも“自由”へと向かって自問自答を繰り返し、実践する姿勢を子どもたちに見せられる人物であることが大切なように思えます。(ドキリ)ピアノレッスンの質を向上させる為に始めた勉強ですが、今のところ私が私自身について見つめ直す“自己教育”であり“自己探求”になっているという側面が強いようです。

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