登山と瞑想
このnoteでは、フリーランスライターの村田保子が、自身の写真・色鉛筆の絵と文章で表現した雑記をアップしています。今回は木曽駒ヶ岳に登山をしたときに感じたことや考えたことを書いています。見出し画像は筆者と山頂からの眺め。
なぜ人は山に登るか?
とても苦しい思いをして登って、山頂でしばらく過ごし、下山する。山頂に到達したときの達成感、気分爽快な開けた景色、雲の上の風景。確かにこれらは山に登った人にしか味わえないものだろう。
しかし、たったこれだけのために?
ときには滑落したり転んで怪我したりというリスクをとってまで登るのか。岩でゴツゴツしていたり、積もった火山灰に足が埋まったりして、歩きづらい坂道をひたすら登るのか。山に登らなければ、高山病にだってならないのに。
私は本格的な登山は2回しかしたことがない。だからこの考察は間違っているかもしれないけど、人が山に登る理由は、登っているとき、または下っているときの「無」になれる感覚を体験するためだと思う。
最初はウキウキした気分で、おしゃべりしながら、自然を楽しみながら登っていたとしても、数十分登り続ければ息は切れる。余裕がなくなり口数も減る。足元に注意しながら、一歩一歩着実に登っていかなければ、足が滑ったり、浮石(不安定でくずれやすく踏むと危ない石)を踏んでしまったりしかねない。だから一歩一歩を大切に、自分の一挙手一投足に意識が集中する。自分が怪我をしたり死んだりするのも嫌だし、自分がそんなことになったら一緒に登山をしている人たちに迷惑がかかってしまう。だから自分の身の安全に集中し、より一層一歩一歩足を進める。
酸素が薄くなっていく。それは命の危険すらも感じさせる体験。息が苦しい。もっとも楽に呼吸ができるペースを、文字通り命がけで探し、少ない酸素で呼吸ができるように自分の身体を慣らしていく。
やがて意識は自分の足の動きに全集中。苦しくてたまらないから、トレッキングポールの使い方、全身の身体の動かし方も、一番効率のよい方法を模索しはじめる。
その先にあるのは「無」の境地。
同じ動作を繰り返し、ひたすら呼吸や動きに集中することは、「歩行瞑想」などの身体を動かしながら行う瞑想にそっくりだ。
「歩行瞑想」について詳しいことを知りたい方は、タイのスカトー寺の副住職をしいているプラユキ・ナラテボーさんの『「気づきの瞑想」を生きる タイで出家した日本人僧の物語(佼成出版社)』を読むのがおすすめ。
瞑想は、パフォーマンスを上げたいとか、集中力を上げたいとか、目的をもってやるものではない。瞑想とは、習慣化により、脳の回路を少しずつ「今」に集中できるように書き換えていく行為であり、その積み重ねによって、生きる苦しみが少なくなるという知恵であり、ツールである。瞑想によってパフォーマンスや集中力が上がったというのは副産物に過ぎない。
もし登山が瞑想と近しい行為であるなら、山頂で景色や爽快感を楽しんだり、美味しすぎるカップラーメンに感動したりするのは、副残物に過ぎない。
もし自分の足で山に登らず、ヘリコプターで山頂に着いたとしたら、それは副産物のみを体験していることになる。それはそれで否定はしない。やった気になるという体験を重ねていくことは、それはそれで幸福で楽しいものだ。そういう人生もまたいい。
今のところ、苦しいと分かっていても、私は自分の身体で体験することを選んでしまいがちだ。ヘリコプターの乗り方を知っていて、それに乗れる予算があったとしても。
おそらく、それは、身体を使った体験が生きている間しかできないレアなことだと考えているから。だって、この世はワクワク体験ランドでしょ? 私たちは体験するためだけに生きている。
木曽駒ヶ岳の絵日記。山頂でウェディングフォトを撮るカップルがいた。花嫁も自らの足で登り、山頂でテント式の簡易更衣室を立てて着替えていた。二人にとって大切な場所なのだろうと想像すると胸が熱くなる。