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ノヴァーリス「過ぎ去りし夏の幻影」 あるいは過ぎ去りし十代の恋の幻

8月31日である。公式には今日で夏は終わりだ。過ぎ去る夏を見送りながらいつも思い出すレコードがある。今日はそんな話をつらつらと書いていくのである。

ドイツにノヴァーリス Novalis というバンドがあった。
70年代に世界で勃興したプログレッシヴ・ロック(以下プログレと略)の流れに乗り、当時の西ドイツ国内でそれなりの知名度を得たハンブルクのバンドだ。

バンド名を18世紀ドイツのロマン派詩人から取っていることからわかるように、その音楽性も浪漫派文學プログレというべき抒情的なものだ。

このバンドを知ったのは高校生のときであった。
わたしは中二病の病勢盛んなりし中学時代から、ドイツという国とその文化に憧れた。昭和のオトコノコのご多聞にもれず、ティーガー戦車やフォッケウルフに魅せられてミリタリー少年と化していたわたしだったが、中学時代に放映された米国製戦争アクションドラマ「コンバット」でさらにドイツ兵に魅せられた。テレビで流れた吹替版ではサンダース軍曹はじめ米兵のセリフは日本語の吹き替えだったが、ドイツ兵のセリフは原語+字幕だった。わたしはそのドイツ語の響きに引き込まれ、友達と「アメリカーナー、ダンケリッヒ!シーセン!」とか「バウムクーヘン、ユーハイム!」とかデタラメドイツ語でコンバットごっこをしたりしていた。
高校受験をクリアして高校生になったわたしが最初に始めたのは部活でも男女交際でもなく、NHKラジオドイツ語講座の聴取だった。男女交際といえば、中学から親しく付き合って同じ高校に入った女友達が、高校生になったからには一歩進んだ交際に踏み込もうという意向を以ってグイグイと間合いを縮めてきていたのがそのころだった。しかし早熟な彼女に比べわたしはいささかオクテであったためドギマギしてしまいそのような流れにうまく乗せることができずに足踏みしていたのだった。そんなふうにまごまごしているうちになんということでしょう、彼女は別な彼氏を作ってしまったではありませんか。

話はずれたがドイツ語講座だ。テキストのストーリーは西独フライブルクの大学の日本人留学生アキラが主人公だ。イラストでは長髪七三分け+メガネという、フィンガー5のアキラがプロトタイプではないかと察せられる風貌だった。加えて学友のギュンター(アゴが割れててクレしん父似)と美貌の女子大生ザビーネ、その3人が織りなす南独キャンパスライフがキャッキャウフフと展開していく。そのうちザビーネをめぐってアキラとギュンターの恋のサヤ当て合戦みたいなのが始まり、最終章ではアキラとザビーネの電撃婚約という結末で終わるのだった。最終回のギュンターの「恋では不運、勉強では幸運、そのようになればいいなあ」という接続法第二式を用いたセリフが印象に残っている。いいぞ日本男児アキラ、大日本帝国万歳、と取り逃がした恋の不運に苦しむわたしは快哉を叫んだ。そしてドイツ語の学習に打ち込むことにより失恋の痛手を忘れようとしたのです。
そのころから、今も愛読するヘッセはじめ、シュトルム、ゲーテ、ハイネなどのドイツ文学にも耽溺しはじめた。恋では不運だったが、ドイツはいい、ドイツに行きたい。ドイツに行けば人生なんとかなる、アキラのようにドイツ人の彼女もできるにちがいない。わたしはそのように現実逃避したのだった。

そのころ日本のレコード各社はドイツのロックを紹介し、プロモーションを展開していた。今では大御所のクラフトワークはじめ、ノイ、タンジェリンドリーム、クラスターなどの国内盤が続々と発売された。音楽雑誌でそのような広告を目にしたわたしは「ドイツ語で歌うロック、そんなのがあるのか!」と刮目したのだった。
他のバンドは電子音楽や実験色の強いものであったが、ノヴァリス(当時の表記ママ)は叙情的なプログレッシヴ・ロックと書いてある。高校入学と同時にプログレッシヴ・ロックにも幻惑されていたわたしは「プログレ、しかもドイツ」という好物の盛り合わせに手を出すのは必然と言えよう。しかもこの文學的かつ中二病的邦題だ。
以上がわたしとこのレコードの出会いの馴れ初めである。

いわゆるシンフォニック・プログレのドイツ代表みたいに言われる彼らだが、他の同時代の欧州諸国や英国のバンドのような美メロや繊細味に欠け、大味で武骨さが目立つ、いかにもゲルマン的な音作りが特徴だ。テクニックに秀でているわけでもなく、むしろもっさりした演奏である。
だがそれがいい。

3枚目のアルバム「Sommerabend」は1976年に発表された。それはわたくしが初めて買ったドイツ産のレコードであった。
見ての通り、ジャケットからしていかにも浪漫的だ。邦題がまたいい。原題は「夏の夕べ」で過ぎ去るとか幻とかどこにも書いてないのに「過ぎ去りし夏の幻影」という仰々しさ。あのころのレコードの邦題はよかった。ロマンがある。
ジャケ裏の歌詞やクレジットのフォントからしてドイツ文学ぽいと当時のわたしはシビれたものだ。加えて各楽器のドイツ語にもシビれた。キーボードはTasteninstrumente、「鍵盤楽器」、ドラムに至ってはSchlagzeug 「打つ物」だ。ドイツ語の持つ理屈ぽさとムダな長さに満ちている。メンバーの写真もいい。4人中3人がヒゲだ。ドイツ人はやはりヒゲを生やして巨大なジョッキでビールをんぐんぐと飲まねばいけない。

A面はインスト曲「出発」と、ノヴァーリスの詩に曲を付けた「奇跡」の2曲、そしてB面全てを占める組曲が「夏の夕暮れ」だ。
海やゲルマンの深い森を思わせるようなシンセサイザーの響きと、このバンドの武骨叙情両面を担当するギターがせめぎ合う。
ギタリストとベーシストが分担して歌うヴォーカルはどちらもどこか頼りなく、とくに後者はヘタといってもいい。だがそれは不思議なことに、このバンドの音のフラジャイルな印象を増幅する一因となっている。次作からはちゃんとしたヴォーカリストが加入するのだが、加入後のこの曲のライヴでベーシストが歌っていたパートが上手いシンガーのものに置き換えられているものを聴くとき、そこには大切な何かが失われていることに気付かされるのである。
歌詞はメンバーの作だが、これがまたドイツロマン派ぽい大仰でブンガク的な言葉遣いを踏襲している。なんかいきなり変容したり超越的存在が出てきたりするのもドイツロマン派あるあるだ。ロックの歌詞がこんなのでいいのだろうか。

夏の夕暮れ

i ) 稲妻

それは夏のとある夕方
彼は海辺にひとり座する
最後の弱い陽光が 波を鎮め眠りに導いていく

彼の胸の糸を 暖かな夏の風が吹き抜ける
微かな波のささやきが 手足の力を弱めていく

彼が人生に選びとったあの世界は遠くにある
そしてなおも遠く離れたどこかに 秘められた宝が隠されている

この夜は優しく彼を包み込み その瞼を重くする
あたかも深い墓にいるかのように 彼は静かな眠りに落ちていく

ii) 浜辺にて

いま彼は未来を見る 暗い夜に覆われて
ひとつの声が遠くから響く 時はもう間もなく近い
日は夜の如く 汝を苦しませるであろう
喜びの中に生きんと欲するならば 汝もまた愛を与えねばならぬ

iii)  夢

いま彼は 人びとを理解するひとつの道を探す
そのすべての途上で 彼は人びとに喜びのみを与えようと欲する
灰色の過去は海に沈み 
いま信念とともに 彼は未来を見つめる

iv) 新たな一日

新しい日が 彼のために始まる
人生はふたたび喜びとなり
彼は跳び回って喜ぶ
なぜこれまでこのようではなかったのだろう

人生は確信に満ち 永遠の生命へと踏み出していく
内なる残り火が起こされ 我らの知覚を照らす
星々の世界は溶け去り 生命のワインと化する
我らはそれを味わい 自身が星となりゆく

v) 光の中へ (instrumental)




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