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人生変わった1日

これはもう、一種の革命に違いない。

今までの弱かった自分、勇気のなかった自分、ぐだぐだ御託を並べるばかりの自分、、どこへ行った?

ひとつ、ありえないくらいの勇気を出して、行動しただけ、ほんのそれだけなのに、どうして全く違う世界に、行けるの??

自分の変化に、びっくりしすぎて、それはもう感動の賜物なので、書き留めておこうと思う。

私は、今日を、5月7日を、「決起の日」と定めた。

「決起の日」と定めたからには、絶対に成し遂げなければならないと、決意を強くした。

9:00 AM 久々の会社に向かう途中の道で、私は、浮き足立っていた。何度も、何度も、考えた。夜は、ほとんど眠ることができなかった。ずっと、うなされてた。弱い自分に、納得できなくて、勇気がなくて、自分を信じられなくて。

12:30 PM 私は、近くの郵便局へ向かう。手紙を出すために。午前中、仕事をしながらも、「恥ずかしくて、やっぱ無理!」「こんなの、頭おかしいと思われる」と、何度もためらった。「何も変えられないんだわ」「でも…とにかく、踏み出さねば」と、自分との闘い。

道を引き返したくなる自分を、何度も何度も、叱咤しながら、行動を正当化する理由を思い出しながら、郵便局へ行き、ついに手紙を出す。書き留めで。

もう、お金を払う瞬間、私は恥ずかしさのあまり、顔が熱かった。真っ赤だったのかも。

「あぁ、ついに、出してしまった… もう元には、戻せない」と、穴があったら入りたい気持ちで、恥ずかしさのあまり、全速力で走り出した。歩いてなんかいられなかった。恥ずかしさで、周りが見えなくて、車に轢かれてもおかしくないと思った。これ以上の、恥ずかしさはない。

14:00 PM 手紙内の人格と、仕事をする自分の人格が乖離しすぎて、またもや、思い出し恥ずかし。でも、なぜだか、決行したあとというのは、あっけらかんとして、異様に仕事がはかどり、いつもよりも、涼しげに、さっぱり、しっかり、働けた。思考もやけに、みなぎった。仕事に対しても勇敢になれ、新しい営業先を提案したら、すんなり受け入れられた。

18:00 PM 帰路。だんだん、元気になってきた。自分を捨て切った自分の足取りが、やけに軽妙。にやにやしながら、大手町までを歩いた。新しい風が吹いているような、根拠のない、予感があった。

かくして、人生変わった。

じめじめしていた自分は、どこに消えたのかな?弱くて、どうしようもない、見たくもない自分は?

人生にあまりに自信がなく、未来になんの期待もできないと絶望した自分は?

手紙に、全部、封じ込めちゃった??う〜ん、でも手紙はそんなに暗くもなくて、むしろ前向きというか。結果的に、そういう内容になっていて。

もう、この、今思い出しても、圧倒的な恥ずかしさ!こいつが原因か。

でも、こんなに恥ずかしいのに、このご時世に見返りなど求めず、絶対的に自分への信念をもって、しかもそれを貫いて、やり切った、書き切った自分。

確かに、信念に根拠はあった。でも、自信は、いまだに微妙。

今回、どうしようもないくらい、考えた。手紙書くのに、3日かかった。1日目、下書きして、全然ダメで、1日おいて、自分の最も深い部分に眠る言葉を何時間もかけて、引き出して。引き出しかけたとき、今度は感情をもろにくらって、1秒1秒の時間をやり過ごすのすら、つらくなった。また1日おいて、読み直して、微調整して、実にまとまった手紙を完成させた。

自分の文章から、余計な情を洗い落とす作業。シンプルにシンプルに、洗練させる作業。透明に透明に、していく作業。

LINE送る作戦っていう手もあったんですよ、でも、LINEでは絶対に伝えられない、文字数的に不可能、と思った。それに、みんながやること、ありきたり。

しかし、手紙は。。。道端に咲いている雑草並みに、目立たない。郵便受けを開けぬ限り、気付かれもしない。そんなちっぽけな存在。伝わるかどうか、心配。まあ、その心配は、大方解消されたんだけれども。

手紙を書いているうちに、気づいた。自分は、ここぞという時に、勝負をかけることのできる人間なんだと。そういう時の勝負では、負けない自信があるんだと。だって、実績があるから。

そもそも、その勝負っていうのは、自分の勘に、全身を委ねた結果なのだと。自分と向き合った結果なのだと。

なんの保証もないところに、飛び込み、自分を委ねるのは、それはそれはとてつもない勇気がいる。

でも、一度それをやってしまうと、それを突き破った自分に出会え、それはそれは大きな自信となる。結果はまだ出てなくとも、関係ない。

自分が「伝える」ってことが使命だった。命題だった。少なくとも、それは達成された。恥ずかしさを克服するということも。

手紙を書くことによって、何であるかはわからないけど、確実に何かいいことが起こる、まるで根拠のない自信があった。

転職するときも、ドイツに移住するときも、支えていたのは、根拠のない自信。しかし、私は全く失敗していない。むしろ、「踏み出してよかった」という気持ちだけ。

もう一つ、気づいた。私は、全身で生を楽しむことのできる人間なのだと。生きることは、辛く苦しいが、思いっきり苦しむことができるということは、思いっきり楽しむことができるということなのである、と。

私は、たくさん食べ、たくさん動き、たくさん寝て、たくさん考えて、たくさん愛して、たくさん働き、たくさん泣き、たくさん笑うのだ。

私が愛する者も、全身で生きることができるのではないか、と。そう思えるのだ。全身で生きる者同士であるならば、仲良くしたい。

だから、私は心配などしなくても、大丈夫。全身を使った、全神経を使った、生きることそのものは、私を裏切らない。

今日空っぽになった自分の中に、もうすぐ、新しい何かが舞い込んでくることが、わかった。

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