「感情」を揺さぶられたい
昨今、何か言っているようで何も言っていない文章がこの世にあふれている。口当たりが良くて、いくらでも読めてしまうテクスト。
誰も傷つけない。読み手を絞らず、全方位に気を遣っていたら、確実にそのような文章ができあがるだろう。わたしはこの現象を揶揄したいのではない。油断していたら、多くの文章はそのような「欠点」を抱えることになる。
そう、何も言っていないことは、長所と美点が見当たらないだけでなく、大事なものが欠けた文章だと思っている。しかし、今、ウケる文章とはそういうものだと思う。マスに響かせるより、マスを刺激しないものが望まれているのだと思う。嫌われない才能が尊ばれる。
なぜなら、みな疲れているから。
この「疲労感」は厄介だ。はじめのうちは軽くても、徐々に病につながり、体を蝕み、死に至らしめる。体を痛めつけて自らを死に追いやりたい人などいない。緩慢な死を望んでいたとしても、人間は心地よく、適度な刺激とそれなりに進歩のある日々を望んでいる。それがかなわなくて、癇癪を起こしたり、怒り狂って犯罪に走る人も存在している。
映画を早送りで見る人たちは知識や教養は欲しい。仲間と同じものを観ていたいし、共感したいし、わかりあいたい。でも、感情が揺さぶられることは好まない。その話を聞いて、正直、驚いた。
わたしは小説を読むとき、映画を観るとき、揺さぶられることを欲している。ほかの人間になってしまうような、価値観がひっくり返ってしまうような、わたしという人間の根底を覆してくれるような作品に出会いたい。(たかだか、二千円程度でそれを要求するのは誠に図々しいのだが、それが目的である)まあ、人生を変えてくれなくてもいいから、ほかの視点、観点は提示してほしい。ちょっと風景が違って見えてくるような刺激を脳みそに与えたい。
わたしの中では、洗脳されたい、別人になりたい、生まれ変わりたい、という気持ちと、ここから梃子でも動かねえぞ、という気持ちがせめぎ合っている。
でもさ、揺さぶられるのって疲れるじゃん。
だから、コミュニケーションと交感ばかりになっていく。インターネット上にあるプロの文章も素人の文章も当たり障りなくなっていく。でも、それでいいのだ。
読み手は疲れたくないのだし、いたずらに疲れさせてもいけない。暇つぶしなのだから、人生が変わってしまうような何かを現実にも、虚構にも求めていない。何も考えていないのではなくて、何も考えたくないのだ。
わたしは今、このような文章をああでもない、こうでもない、と考えながら、書いている。でも、それは時間的、精神的余裕があるから、書けているに過ぎない。(残念ながら経済的余裕はない)
時間的余裕、精神的余裕、経済的余裕、この三つが奪われると、本当に何もできなくなってしまう。何もしたくない、と言ったほうが正しいか。
この三つが奪われている人、奪われつつある人、奪われる予感のある人が、この世にたくさんいるのだとしたら、書き手がぎゃあぎゃあ騒いでも、意味がない。何かを言う必要もないのだ。
心身ともにボロボロの人が大谷翔平の剛速球を受けたら、死んでしまうではないか。でも、金持ちで体を鍛えていて、超健康だったら、一球ぐらいだったら、そのボールを受けてみたいと思うかもしれない。知的好奇心は、心身ともに健康であるという土台がなければ成立しない。
鋭くて知性のある書き手の挑発的な文章を受け止められるのは、大衆に余裕があるときだけなのだ。そのような書き手が綺羅星のごとく現れないのは、みんな疲れているからなのだと思う。社会に余力がない。
何も言わない、何も言っていない文章は、人に負荷をかけず、体力を消耗させない。慰めと気休めになる。それが「機能」なのだ。核心に迫る必要などない。深刻に何かに心を痛めなくてもよい。だって、疲れているんだから、もう寝させてよ。
それでも、わたしは、どこかで待っている。何かに揺さぶられたい。名前すら捨てて、まったくの別人格になってしまうような文章が読みたいし、わたしが気付いていないことを気付かせてくれる映画を待っている。
疲れてもいいからさ、揺さぶっておくれよ。