#映画感想文335『ぼくのお日さま』(2024)
映画『ぼくのお日さま』(2024)を映画館で観てきた。
監督・脚本は奥山大史、出演は池松壮亮、越山敬達、中西希亜良。
2024年製作、90分、日本映画。
小学六年生のタクヤ(越山敬達)は、野球もアイスホッケーも好きではないのだけれど、男子のたしなみ、友達との付き合い、あるいは慣習として部活動に参加している。彼は集中力もなく、ぼんやりと空を眺めていたりする。豪雪地帯に住んでいるため、春夏は野球部、冬はアイスホッケー部に切り替わる。野球部でも走らない彼は、リンクを滑れるはずもなく、キーパーをさせられ、パックがぶつかり肋骨のあたりが腫れてしまう。彼の場合、やる気はないのだが、嫌々やっている風でもなく、何というか、まだはっきりとした自我がない。
そのスケートリンクでは、フィギュアスケートの練習も行われている。タクヤは中学生のさくら(中西希亜良)のスケートに見とれ、彼女に近づきたいと思うようになる。ホッケー部の練習には参加せず、フィギュアスケートの練習に勝手に紛れ込んでいく。
元フィギュアスケート選手の荒川(池松壮亮)は、子どものフィギュアスケート教室のコーチをしている。彼はタクヤとさくらにペアでアイスダンスの大会に出ないかと提案する。男女ペアのアイスダンスは競技人口が少ないため、優勝できる確率もかなり高い、という計算もあった。タクヤの視線の先にはさくらがいることに荒川はすぐに気が付く。その恋心、モチベーションの高さを利用することを彼は考えていた。往々にして、そのような第三者の企みは空転し、反作用をもたらす。
さくらは、コーチの荒川に恋心を抱いていた。もちろん、中学生なので、それは単なる憧れで、身近な大人に注目してほしい、という気持ちだったのだろう。
さくらは学校からの帰り道、スーパーの駐車場に荒川の車が停まってることに気が付き、車中の様子を観察する。荒川は運転席にいて、助手席に座っている男性とはかなり親し気だ。その男性が友人ではなく、恋人であることを彼女は悟る。彼女の荒川への思いは、一瞬で嫌悪感に変わる。
荒川がタクヤを依怙贔屓していたのはゲイだからで、気持ち悪いとさくらは保護者に訴えて、荒川を追放してしまう。さくらは、傷ついた自分の心を守り、スケートを続けるために、荒川を傷つけることを選択した。それは中学生の女の子特有の残酷さでもあるが、そこまで深く傷ついてしまう無垢さの表れでもある。(おそらく、荒川が異性愛者でも、彼女は同様の反応を示したのではないか、と思われるが、その場合、あのように追い出すことはできなかっただろう)
ゲイを差別してもいいという、地方のマジョリティの傲慢さにより、荒川はフィギュアスケートのコーチではいられなくなり、その土地を去ることになる。
荒川は恋のキューピッド気取りで二人の間を取り持とうとしたのだが、それは余計なお世話であり、さくらの恋心に気付けなかった鈍感さに足元をすくわれたのだ。
痛くて苦しい映画だった。特に荒川が職を失う終盤は見ていてつらかった。社会人にとってコミュニティを追い出され、食い扶持を失うことは社会的な死を意味するので、どうにもこうにもきつい。(わたしが十代だったら、その致命的な痛みに気が付かなかっただろう)
ただ、タクヤという少年がさくらに見とれるシーンは、どうにも長く感じられ、その凝視がちょっと気持ち悪くも感じられた。目を逸らしたり、あえて見ないことで、心情を表現することもできたはず。思春期の萌芽、少年の淡い恋心や片思いを手放しに歓迎したり、美化するのは少し甘いと思う。恋とは性欲であり、執着でもあるのだから、それほど無邪気に取り扱えるものではない。全然、ほのぼのとはしなかった。そして、少年も服を着たままでいてほしい。未成年は男女問わず、肌を見せるシーンはいらないと思う。