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映画『アンラッキー・セックスまたはイカれたポルノ』(2021)の感想

映画『アンラッキー・セックスまたはイカれたポルノ』を映画館で観てきた。

監督は、ルーマニアのラドゥ・ジューデ。2021年の第71回ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞している。

上映時間は106分、2021年製作、ルーマニア・ルクセンブルク・クロアチア・チェコ合作である。

舞台はブカレストで、ブカレストのそれほど美しくはない街の中を主人公のエミは歩く。ナンパされたり、罵倒されたり、忙しいのだが、『プロミシング・ヤングウーマン』のキャリー・マリガンだったら、車をボコボコに破壊していただろう、と思ってしまった。

彼女は、私立小学校(中学校?)の教師で、リベラルなフェミニスト。

彼女は、夫とのプライベートセックスビデオを、こともあろうか、夫によってネット上にアップロードされ、拡散されてしまう。緊急保護者会という名の公開処刑に向かうまでと、保護者から糾弾されるシーンで構成される。

肝心の夫は、映画にも登場しない。矢面に立ち、辱めにあうのは、すべて妻である彼女で、そこにも、やりきれなさを感じる。好奇心とちょっとした自慢したい、誇示したいという気持ちから、アップロードをした夫の幼稚さにぎょっとする。

そして、プライベートビデオとはいえ、夫婦は「ポルノ」を演じているのだ。自分たちを盛り上げるための「ごっこ遊び」に過ぎないのかもしれないが、ポルノに毒されてしまっているようにも見える。まあ、記録映画のように淡々と撮影しても、注目は集めてしまうだろう。

エミがカフェに入ると後ろで、四人の若者たちが神風特攻隊の話をしている。
「神風特攻隊は、文系の学生が捨て駒のように扱われていたのよ」
「ぼくは経済学部」
「ああ、あなたは神風ね」
妙に具体的な話でもあるのだが、これから断頭台へ向かう彼女も、ある種の神風だと言いたかったのだろうか。

そんなわけで、彼女が糾弾されるのが、映画の後半である。ただ、この映画の特筆すべきところは、ストーリーの外にもある。セックスビデオが流出して、単なる辱めだけでなく、世間からパージされていく過程のみならず、ルーマニアの歴史と生活、習慣の断片がいくつも挿入されていく。

そこで描かれるルーマニアは、全然素晴らしくない。むしろ、ルーマニアの恥ずかしいところを集めたような、「ほら、わたしたちって、ろくでもないでしょう?」という短い挿話が、いくつも重ねられていく。

軍隊の残虐さ、少数民族の虐殺を隠蔽、ユダヤ人差別、革命の馬鹿馬鹿しさ、独裁政治、チャウシェスクの宮殿の建築中の労働者の事故死、女性蔑視、女性差別、男性優位主義などが、これでもか、というぐらい出されていく。

彼女を糾弾するための保護者会でも、人間の嫌なところが、延々と描かれる。

「このポルノ教師は、少数民族の虐殺なんて、ありもしないことを教えている」とか「ヒトラーはイスラエルを作るためにユダヤ人虐殺したんだ」などなど、既視感の連続である。

虐殺はなかった。強制連行はなかった。これって、どこかの国のネット上でも大人気の言説である。かの国では教科書から記述が消えたりしている。

ルーマニアの歴史修正主義と陰謀論を目の当たりにして、おいおい、うちも同じだよ、と思ってしまった。

わたしは、この映画は、ある種の型、フォーマットとして、機能するのではないかと思った。ルーマニアバージョンだけでなく、あらゆる国のバージョンが作れる。そして、見たい。

ルーマニアのドキュメンタリー映画『コレクティブ』にも、通じている。映画という表現で、政治の問題を内外に伝えたいというモチベーションがある。

最大限の皮肉とユーモアは武器になるのだと改めて思った。

あと、コロナ禍で撮影されており、みんなマスクをしている。鼻出しマスクを注意されたり、マスクで言い争いをするさまにも、それほど違和感を覚えなかった。人は慣れてしまうのだ。

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佐藤芽衣
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