「自分語り」「仕事語り」にご注意を
わたしは、「わたしは~、わたしは~」「ぼくは~、ぼくは~」と自分語りを始めてしまう人が嫌いだった。とりわけ、アーティストと呼ばれている人たちが延々と話すさまは見ていて醜悪ですらあると思っていた。おまえが話してんだから、わざわざ主語を言わなくても、わかるよ。何、「我」を強調してるんだ、日本語がわかってねえのか、とイライラしていた。
半分は妬み嫉みで、もう半分は教養を感じさせないしゃべり方を憎んでいたのだと思う。わたしって、とっても狭量。
ところが、昨今、「自分語り」をする場は無限に増殖している。以前は、選ばれた人たちがテレビや雑誌のインタビューで答えるさまを見るしかなかったし、それをありがたがって観たり読んだりしていた。
今は、ありとあらゆるところに「自分語り」が潜んでいる。
「自分語り」って嫌だわ、なんて言いながら、noteで雑文をつらつら書いているのは自己矛盾も甚だしい。結局、わたしも「自分語り」からは逃れられない。そのうえ、「自分語り」+「仕事語り」は、本人も好きだし、好まれる話のジャンルなのかもしれない。
わたしも仕事の話は、結構好きだ。仕事の話は、成功者も、敗者も、みんな真剣で、実体験であり、喜怒哀楽が含まれている。お金というわかりやすい報酬があり、生活において結構な時間を拘束されるので、誰しもエピソードにはこと欠かない。
仕事で頑張った話、苦労した話、裏切られた話、辛酸をなめた話などなど、どんな人の語りも興味深く読めてしまう。みんなサザエさん症候群とブルーマンデーを抱えながら、花金やらプレミアムフライデー(覚えてますか?笑)を心待ちにしている。
ろくに仕事をしないくせに、仕事語り(プロフェッショナル論)だけはいっちょまえの人。仕事熱心ではないわりに、キャリアを熱を持って語り出す人もいたりする。
転職活動をすれば、ただの人でさえ、物語が要求される。相手が納得してくれる、自分のストーリーを作り上げなければならない。それは本当である必要はなく、見せることを前提としており、わかりやすい、理解してもらえる物語だ。相手が聞きたがっている「建前の物語」をきちんと準備しておかなければならない。
わたしは、いつから、仕事を「特別なもの」として位置づけ、意味づけをしてしまったのだろう。わたしは、今も昔も、できれば働きたくないと思っているが、「仕事語り」をしてしまう。このnoteでもスキが一番ついているのは仕事の記事だ。
キャリア論も、そこかしこにあふれ、花盛りだ。しかし、仕事をアイデンティティにしたり、仕事をしている自分に酔うのは、とても危険なことなのではないかと最近強く思っている。仕事が楽しいとか、仕事を通じて成長することを否定したいのではない。しかし、仕事を特別視するのは、おかしな気がするのだ。自己啓発的な言葉のシャワーを浴びて、宗教みたいに考えている人も少なくないのではないだろうか。
「仕事」も、「朝ごはん」や「入浴」と同じ位置づけにしておいたほうがいい。
だって、定年退職して再雇用になったら、給与が半分になったり、最低時給で嘱託で雇用されたりする。給与が能力に対して支払われているのだとしたら、そんなことはあるわけがない。給与とはしょせん会社のルールであり、法律によって作られた社会のシステムの一部にすぎない。たとえば、同じ職種でも、業界の趨勢で収入はいかようにも変わるではないか。仕事内容と能力が同じでも、同じ給与をもらっているわけではない。
趣味を充実させよう、とか、そういうことを主張したいわけではない。わたしが言いたいのは、生活のすべては等価であり、「仕事」は偉くも何ともない、ということだ。
「自分語り」と「仕事語り」は油断していると、ペラペラ話してしまう。それは「キャリアの話」「ビジネスの話」は有益であるという前提があるからだ。でも、その背景にある資本主義って別にそんなに偉くないだろう。お金があれば何でもできる。大体の困難は解決できる。だからといって、「お金」が偉大なわけではない。もちろん、社会主義や共産主義だって偉くない。しょせん、わたしは猿から進化した人間なので、たかが知れている。まあ、猿のわりには頑張っていると思うし、猿であるがゆえに暴走しているような気もする。
とりとめのない話になってしまったが、くれぐれも仕事に潰されないように気を付けたいし、仕事で苦しみを抱えないようにしたいと思っている。