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#映画感想文263『CLOSE クロース』(2022)

映画『CLOSE クロース(原題:Close)』(2022)を映画館で観てきた。

監督・脚本はルーカス・ドン、出演はエデン・ダンブリン、グスタフ・ドゥ・ワエル。

2022年製作、104分、ベルギー・フランス・オランダ合作。

予告編を見たとき、これは是枝裕和監督の『怪物』に類似した作品なのかなと思い、同時代の同時期に似たようなテーマをモチーフにしようとしている人たちがいることに驚いたりもした。

鑑賞後は、『怪物』の方がより個人にフォーカスしており、『クロース』の方が社会制度や文化が個人にどのように影響を与えるかといったところに重点が置かれているように思われた。

13歳のレオ(エデン・ダンブリン)とレミ(グスタフ・ドゥ・ワエル)は大親友で四六時中つるんで遊んでいた。中学に入ると、二人の親密な雰囲気を訝しがった女の子たちから「二人はカップルなの?」と尋ねられる。女の子たちも悪気があったり、からかったりしているわけではない。

レオは「手をつないだり、キスもしない。君たちと同じだよ」と答える。それでも女の子たちは「あなたたちの空気感は友達以上のものを感じる」と、納得できないといった表情を浮かべる。そして、男子グループからは、同性愛者ではないかとからかわれる。

レオは周囲の態度に過剰反応を見せる。そして、いわゆる男社会の規範、ボーイズクラブに入る方を選ぶ。「男らしさ」を獲得しようと、それまでの行動を変えていく。

レオの家は、生花を育て出荷する農園を家族経営しており、いわゆる農作業、肉体労働に従事している。レオとお兄さんは、休日や放課後には手伝いに駆り出されることもある。これはちょっとステレオタイプではあるが、マチズモが必要とされる世界で、レオは生きている。

一方のレミはクラリネット奏者として、ソロを任されるほどの腕前で、レオの家よりは文化的でリベラルな家庭環境であるように見える。

レオがレミを遠ざけた方法は、「無視」である。はっきりと言語化されず、ただ確実に「拒絶」を示す。このレオのやり方は、褒められたものではないのはもちろんなのだが、誰でもやったことがあるのではないだろうか。

朝の登校はいつも二人で自転車で行っていたのに無視して先に行ってしまう。お泊りの日、体を寄せ合って寝ていたけれど、ベッドを別々にする。二人きりにならないようにほかの友達の輪に入る。お腹に頭を載せて芝生に寝転がるのはそれとなく避ける。レミが理由を尋ねても、「別に」とレオは答えない。周囲からカップルではないかと疑われているから距離を置きたいとは言わないし、言えない。本作の中で、レオとレミのセクシャリティはわからずじまいで終わる。ただ、そこに踏み込んで言及することは憚られたのだろう。そもそも、そのような話題を持ち出すこと自体がどうにも難しい。

そして、レオはアイスホッケークラブに入り、男の子たちとサッカーの話に興じたりする。以前の映画ならば、それは「大人の男」になるための小さな通過儀礼として、いたしかたないものとして描かれていただろう。レオは甲冑のようなものを身に纏い、棒を振り回している。何とも男らしい。

本作では、社会的な同調圧力が、二人の友情を破壊し、傷つけられたレミは自死を選ぶという最悪の結末を迎える。

レミはわけがわからず、拒絶に涙して、傷ついていた。最も近しく感じていた人に拒絶されれば、誰だって傷つく。そして、子どもだから極端な方向に走ってしまう危険性があるのだと監督は言いたかったのだろう。

映画の後半は、レオが自らがレミを自死に追い込んだことを認められるか否かに焦点が当たっていく。レオは表情を変えず、考え込み、何度もレミの母親に何か言おうとして何も言えないといった状況を繰り返し、最終的には自分自身の責任として、レミの死を認める。

映画館を出ると、「救いようのない結末だったよね~」という会話が聞こえてきて驚いた。レオが贖罪の意識を持ったことは、明らかに「救い」ではないか。もちろん、レミの命が戻らないことは絶望的なことではあるのだが、レオが「ぼくは別に悪くない」と自己正当化をしてサイコパスとしての人生を歩まないことに安堵した。

セクシャリティの問題、LGBTの側面を持った作品であることは間違いないのだが、「無視」することの暴力性が嫌というほど描かれている映画だったと思う。

無視することによる拒絶は、やる側は比較的簡便で楽なのだが、やられる側にパニックと苦痛をもたらし、対処のチャンスすら与えられないという過酷なものだ。

それは学校だけにとどまらず、人間関係があれば、あらゆるところに存在している。ただ、大人になれば、逃げ道や逃げ場がいくつかあるので、それほど窮地に立たされずに済むが、子どもはそうではない。

「無視」というのは、ひどいものだ。無視をされたこともあるし、無視をしたこともある。わたし自身は加害者でもあるので、弁解の余地はないのだが、できるかぎり、誠実でありたいと思わされる作品だった。空回りしても、伝わらなくても、言葉を尽くしたほうがいい。無視よりはそちらのほうがずっといい。察してくれ、という態度はときに暴力性を伴う。

ただ、無視されたぐらいで、あなたの価値は(そしてわたしの価値も)、何一つ損なわれることがない、ということも補足しておきたい。無視をした人が嫌な奴でも、世界で一番愛している人であったとしても。

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