#映画感想文232『聖地には蜘蛛が巣を張る』(2022)
映画『聖地には蜘蛛が巣を張る(原題:Holy Spider)』(2022)を映画館で観てきた。
監督はアリ・アッバシ、脚本はアリ・アッバシ、アフシン・カムラン・バーラミ、主演はザーラ・アミール・エブラヒミ、メフディ・バジェスタニ。
2022年製作、118分、デンマーク・ドイツ・スウェーデン・フランス合作。
本作は2000年代初頭にイランの聖地マシュハドで実際に起きた事件がもとになっている。街娼を標的にした連続殺人事件で、犯人は「キラー・スパイダー」と呼ばれていた。
Newsweekの大場正明さんの記事によれば、ドキュメンタリー作品として『And Along Came a Spider』が2003年に作られ、2020年にもエブラヒム・イラジュザード監督が『キラー・スパイダー』という映画を撮っている。すでに作品が二つもあることから、イランにおいて、相当インパクトのある事件だったことが窺える。
この映画は、冒頭からジャーナリストであるラヒミ(ザーラ・アミール・エブラヒミ)が女性差別に直面する。予約していたはずのホテルで、未婚女性であることを理由に宿泊を拒否されそうになる。「予約システムが故障していた。部屋の空きはない」と告げられる。取材先で宿無しでは困ると、彼女がジャーナリストであることを示す身分証明書を出すと、しぶしぶ泊まることが認められる。男性しか働いていない社会だと未婚女性、男の後ろ盾がない女は、反社会的な存在として排除されるのだ。その現実が空恐ろしい。
主演のザーラ・アミール・エブラヒミは、元々はキャスティングディレクターとして参加していたが、主演女優が本作出演を怖がり辞退したことから、急遽出演することになったのだという。彼女自身は、いわゆるリベンジポルノで元婚約者の男性からセックス・テープを流出させられ、イランの芸能界を追放され、現在はフランスに拠点を移しているそうだ。彼女は本作でカンヌ映画祭の主演女優賞に輝き、見事カムバックを果たした。生き抜いた彼女はそれだけで讃えられてよいと思う。
本作は連続殺人鬼であるサイードとジャーナリストのラヒミの視点が交互に進んでいく。
サイードには妻と息子、娘がいて四人で暮らしている。愛情深くはないが、悪くはない平凡な父親として描かれる。彼は建築物の解体を生業としている肉体労働者である。自家用車はなく、移動手段はバイクだ。そのバイクで夜な夜な街に出かけ、娼婦である女性をバイクの後ろに乗せ、殺害現場に向かう。サイードは強姦や物盗りはせず、ヒジャブで彼女たちを絞殺する。女性を抑圧している服を道具にして女性を殺害するのだ。皮肉が過ぎるのではないか。
サイードは自己顕示欲が抑えられず、犯行後、新聞社に死体遺棄現場を教えるために公衆電話から電話をする。そして、彼は有名な殺人鬼として世間をにぎわすようになっていく。
また、サイードは日常生活に飽き飽きしており、戦争で殉死できなかったこと、大怪我すらしなかったことを嘆く。自分は神に選ばれなかったのだと。何か大きなことをしたい、大物になりたい、という欲望が見え隠れしている。(まあ、一皮むけば身体的に弱い女性を殺しているだけの単なる殺人者に過ぎないのだが)
一方のラヒミは警察に取材に行けば、警官に「署ではなく外で会おう」と言い寄られ、毅然と拒否すれば「おまえだって、娼婦と変わらないだろう」と侮辱される。ラヒミは震えながら、恐怖と恥辱に耐える。すぐそばに暴力(性暴力)がある。
男たちは社会に迷惑な娼婦を殺すことに何の問題があるのか、とうそぶく。自分たちの買春行為は棚上げして、さまざまな事情を抱えている女性たちは単なる娼婦として記号的に扱われ、顧みられることはない。
取材を続けるラヒミは警察の緩慢な動きに苛立ち始める。夜中に巡回パトロールを増やしていたりしている様子もない。警察は犯人を捕まえる気がないのではないか、という疑いも抱くようになる。そこで彼女は街頭に立ち、同僚の男性とおとり捜査の真似事を始める。それがサイードの逮捕につながるのだが、ここはフィクションだろう。
逮捕されたサイードは、「神の意志で街を浄化した」と強弁する。ここからが恐ろしいのだが、男性たちはサイードを英雄視して、彼を無罪にしろというデモを始める。サイードの妻も、「夫は娼婦を殺しただけ。正しい行いだった」と平然と言い放つ。
FRaUの記事での監督インタビューが興味深かったので引用する。
そうなのだ。ミソジニー(女性嫌悪)は、そこかしこに潜んでいる。女性のフェミニストですら、大なり小なりミソジニーを抱えている。男性や社会に欲望される、期待される女性性を持つ自分が、ものすごく薄汚れた存在のように感じてしまった経験は、女性なら誰しもあると思われる。また、女性の社会的な弱さや精神的な弱さに過剰反応してしまう女性も少なくない。わたし自身も内なるミソジニーがあると自覚している。
サイードは死刑となるが、サイードの思想、ミソジニーは強烈に社会にはびこっていることが示唆され、映画は終わる。この絶望から始めようではないか、という監督の意志を感じる。
わたしはミソジニー映画の最高峰は、ドゥニ・ヴィルヌーヴの『静かなる叫び』(2009)だと思っているのだが、本作はそれと並ぶ作品であると思う。『静かなる叫び』も、1989年12月6日にモントリオール理工科大学で起きた銃乱射事件がもとになっている。こちらの映画では、男子学生が女性が犠牲を払わないくせに優遇されているという思い込みによる恨みを募らせ、キャンパスの中で女性だけを銃殺していく。あまりのむごさと徹底されたミソジニーに驚いた。(ヴィルヌーヴは、マジで『DUNE 砂の惑星』なんか撮らなくていいんだよ)
そういえば『MEN 同じ顔の男たち』も、ミソジニーがテーマになっている。
アリ・アッバシ監督の『ボーダー 二つの世界』も近いうちに鑑賞したいと思っている。
ミソジニー自体がモチーフになっている作品が増えているのはいいことだ。まあ、無自覚の天然ミソジニーがあふれちゃってる作品の方が、ずっとヤバくて、めちゃくちゃ多いんだけどね。