#映画感想文268『バービー』(2023)
映画『バービー(原題:Barbie)』を映画館で観てきた。
監督はグレタ・ガーウィグ、脚本はグレタ・ガーウィグ、ノア・バームバック、出演はマーゴット・ロビー、ライアン・ゴズリング、アメリカ・フェレーラ、ケイト・マッキノン、アリアナ・グリーンブラット。ナレーターはヘレン・ミレンと何とも豪華。
ちなみに主演のマーゴット・ロビーはプロデューサーで、グレタ・ガーウィグに本作の監督と脚本を発注した人でもある。
2023年製作、114分、アメリカ映画。
言わずと知れたバービー人形が主人公で、どんな物語になるのか、果たして2時間持つのかを不安に思っていたが、それは単なる杞憂であった。
メタファーと皮肉をコメディでコーティングして、勘の良い人も、そうでない人も楽しめる作品になっている。
ちなみにわたしは公開初日に行き、周りは英語ネイティブの人が多かった。笑うスピードがわたしよりずっと早くて疎外感を覚えたぜ(笑) その映画館は朝の回から夜の回まで満席だった。(地域によってはそうではないようなのだが…)
定番バービー(マーゴット・ロビー)は、バービーランドで完璧な毎日を過ごしていた。あらゆるバービーたちが生き生きと暮らしている社会。大統領バービー、ノーベル物理学賞受賞者バービー、ノーベル文学賞受賞者バービー、妊婦や車椅子や義手のバービーもいて、みんな大活躍している。
ある日、定番バービーに異変が起こる。踊っている最中、「死って何?」という疑問が頭をもたげ、思わず口に出してしまう。流れていた音楽は止まり、フロアは静まり返る。もちろん、人形に「死」はやってこない。しかし、「死」の存在を知ってしまったバービーは、元のバービーでなくなってしまう。寝起きはすっきりしないし、口臭も気になるし、シャワーの水は冷たいし、ピンヒールがうまく履けない。
「完璧な女性だったはずなのに!」と落胆する必要はない。生身の女性とはそういうものだ。バービー人形のような女性になってほしい、と女性に期待するのはお門違い。女性自身もバービーになりたいなどと願ってもしょうがない。「だって、わたしたち生き物だし」という身も蓋もない指摘である。
バービーは、自分の持ち主である人間の思念が我が身に影響を与えていることを知り、しぶしぶ人間界に行くことになる。ボーイフレンドのケンは誘ってもいないのに、バービーについてくる。
人間界に上陸したバービーは、まず男たちに性的なまなざしをぶつけられ、性的なジョークを言われ、早々にモノ扱いされ、気分が悪くなる。そのうえ、中学生の女の子たちにバービーについて尋ねると「バービーは五歳で卒業したの。バービーはフェミニズムを後退させ、女性にコンプレックスを植え付けた諸悪の根源」と散々なことを言われ、バービーは半べそ状態になる。(マーゴット・ロビーはコメディエンヌでもあるので、こういう演技がとてもうまい)
一方のケン(ライアン・ゴズリング)は、男が活躍して、女性を支配している社会に陶然とする。「女なんて活躍しているかのように錯覚させて手のひらの上で転がせばいいんだよ」という男性までいる。単なる脇役で、バービーのボーイフレンドという役割しかないケンは、男性が女性を支配している家父長制に狂喜する。
そして、バービーの販売元であるマテル社に、バービーランドからバービーとケンが脱走したというニュースが入る。そこではスーツを着たおじさんしかいない会議が行われ、女の子たちに夢を与える人形とは何か、という議論が行われていた。
(女性活躍推進会議におじさんしかいない、というのはどこかの国でも見たことがあるような気がするが、おそらくわたしの気のせいだろう)
バービーは謎を解くために、マテル社本社に赴くのだが、男性ばかりの職場、受付にしか女性がいないことに愕然とする。しかし、社長に箱の中に戻れと言われる。
「この箱の匂いって懐かしい。プルーストみたい!」と『失われた時を求めて』のマドレーヌのあれまで引用されるのだが、バービーは箱の中に戻りたくないと気が付き逃亡する。男社会というのは、いつも女を閉じ込めようとするものなのだ。
その逃亡を手助けするのが「死にたくなったセルライトのあるバービーを想像した」秘書のグロリア(アメリカ・フェレーラ)だった。しかし、持ち主にたどり着き、謎は解けても、問題は解決しない。グロリアは思春期で反抗期の娘サーシャとはうまくコミュニケーションが取れないし、仕事は受付で大事なことは任せてもらえず、鬱屈を抱えたままなのだ。
マテル社から逃げようと定番バービーは、自分の持ち主であるグロリアとその娘のサーシャを連れて、三人でバービーランドに戻る。すると、バービーランドはケンによって家父長制が導入され、社会進出していたはずのバービーたちは見事に洗脳され、男性にかしずくだけの存在になっていた。これはまずいと定番バービーは説得に回り、洗脳を解くことに成功する。ここで定番バービーは、権力を手放してはいけない、ときちんと行動するのだが、それってマテル社の社長が「女性は重要」と言いながら席を決して譲らない、というところと合わせ鏡になっており、お見事。
ともかく、ケンが憲法改正までして男中心社会にしようとするのだが、それを阻止するためにバービーたちのやることがせこいのだが効果的。
ケンの下手なギターの演奏と歌唱を黙ってにこにこしながら、我慢してずっと聞いてあげる。株や投資に疎いふりをしてアドバイスを求める。ゴッドファーザーについて教えてほしいと頼む、などなどマンスプレイニングをおちょくりまくっていく。男同士を争わせるように仕向け、投票をさせないようにする作戦なのだ。でも、男の人ってよく「女の敵は女だよなー」って半笑いで分断すれども統治せずをずっと女にやってきたよねー。
男は馬が好きで、スタローンが好きで、筋肉が好きで、と皮肉が止まらない。mojo dojo casa house とかいう変な道場でトレーニングしてれば? とケンを突き放す。
小ネタが多すぎて、初見ですべてを把握できる人はいないだろう。印象に残っているのは、グロリアの娘であるサーシャが「男も女も、女が嫌い」という女性嫌悪の蔓延に諦観を覚え、グロリアが「女の人生は苦行でしかない」と述べるところである。
終盤に、秘書であるグロリアが新しいバービーのアイデアを社長に提案すると、その場で却下されるのだが、後ろの男がその案に賛成すると、社長が手のひらを返して、「よし、採用しよう」と即答する。ああ、現実は現実のままなのだと悲しくなってくる。バービーランドは単なる架空の空間で、この映画もフィクションで、現実の人間界の家父長制はそのまま続いていくのだよ、という監督の絶望まで余すことなく描かれている。
しかし、いろんなことを知ってしまったバービー(目覚めてしまった女)は、身体を持って生きることを選ぶ。生きるとは、暑かったり寒かったり、口臭がしたり、排泄と生殖をする人間となり、身体性を獲得することである。つまり、生きていれば「死ぬ」のだ。バービーは生きることと死ぬことを選択する。
定番バービーを中心に書いてきたのだが、ケンの物語であることも間違いない。
そして、マーゴット・ロビーって最強なんだなと再確認。『プロミシング・ヤング・ウーマン』のプロデューサーでもあるし、『アイ,トーニャ』でトーニャ・ハーディングを演じているから、もう怖いものなんてないだろう。
グレタ・ガーウィグがグロリア役でアメリカ・フェレーラを起用した理由は、やはり『アグリー・ベティ(原題:Ugly Betty)』という、その当時も「このタイトルって酷くない?」という作品で矢面に立っていたことに対するねぎらいもあったのではないかと勘繰っている。ルッキズムという言葉はその当時知らなかったけれど、あまりにもなタイトルだと思う。
ケンを演じたライアン・ゴズリングは寡黙な、何を考えているかわからない男性を演じていることが多いが、『ブルーバレンタイン』ですでにマチズモを奪われている男性を演じていたから起用されたのではないかとかも考えてしまった。(答え合わせをするには、英語の監督インタビューを読まねばなるまい)
フェミニズム映画は紛糾し、酷評されたりもするのだが、アメリカ本国では大ヒットしているらしいので、社会はちょっとずつ変化していくのだろう。とはいえ、わたしたちはいずれ死ぬ(どうせ死ぬ)ので、権力闘争に明け暮れて命を削るよりは、多少ゆるく生きていきたいものだとも思う。
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