#映画感想文208『母の聖戦』(2020)
映画『母の聖戦(原題:La Civil)』を映画館で観てきた。
監督はテオドラ・アナ・ミハイ、脚本はオドラ・アナ・ミハイとアバクク・アントニオ・デ・ロザリオ、主演はアルセリア・ラミレス。
2021年製作、135分、ベルギー・ルーマニア・メキシコ合作。
母親のシエロと娘のラウラは、二人で暮らしている。夫はレストラン経営で成功しており、若い愛人を作り、別居中。娘のラウラとの会話は、どうにも噛み合わない。それは母と娘の双方が感じているものの、互いを愛していることだけは確かだ。ラウラはボーイフレンドのリサンドロとデートするためにうちを出る。その直後、男性の若者の二人に娘を誘拐した告げられる。返してほしければ身代金として15万ペソと旦那の車を持ってこいと言う。警察と軍には言うなよ。おまえが通報したらすぐわかるぞ、と脅される。
シエロは娘を救うべく、冷え切った関係である夫を説得したり、お金をかき集めたり、街中で聞き込みをしていく。その途中、家を襲撃されたり、車を燃やされてしまったりもするが、彼女は負けない。
この脚本の恐ろしさは、親しくしているご近所さんが、自分たちを家族を標的として推薦したり、資産情報などをマフィアやチンピラ連中に流していたという事実である。夫の愛人はものわかりよく身代金を支払うように、夫に促す。この愛人も内通者なのか。すべての人が疑わしい存在になっていく。そのうえ、警察と軍にも犯罪組織の人間が入り込んでいる。これがメキシコの現実なのだろう。毎日、人狼ゲームをやっているようなもので、その人狼は日々変わっていく。
自慢話なんか絶対にしてはいけないし、人付き合いも最低限に済ませるのが得策ではないか。facebookやインスタに自慢話をのせたり、資産状況を明かすなんて、やっぱり超危険なのだ。
わたしはアメリカに行きたがる中南米の人たちが、いまいち理解できていなかったのだが、貧しい市民同士が奪い合うような社会の仕組みが自明のものとして存在しているのであれば、そこにいられない、という気持ちはよくわかる。
映画冒頭のシエロは、頼りなく、自信のなさそうな女性である。夫は愛人を作って出て行き、彼女を傷つけている。養育費や生活費の送金も少ないのだけれど、文句も言えない。働き口もない。自分自身に対する忸怩たる思いもあったのだろう。事件が起きて、彼女の日常は一変する。その彼女の瞳には悲しみや怒り、諦念、失望といったものが次々と浮かぶ。しかし、娘を救い出す、見つけ出すという圧倒的なエネルギーによって、その瞳には意志の強さが宿り、エネルギーがみなぎる。彼女は闘う女性へと大きな変貌を遂げる。
このような母親の愛をわたしはどこかで見たことがある。鑑賞後、楳図かずお先生の『漂流教室』だったことを思い出す。主人公の少年の母親は、息子を探すために東奔西走し、邪魔する人たちを容赦なく、なぎ倒していく。聞く耳など持たない。頭の狂った女だと言われようが関係ない。息子を救うためなら何でもする。こちらはSFホラーで、人間の醜悪さがこれでもかと描かれていく。(『漂流教室』こそ、サイドAとサイドBで映画を作ってほしい)
そして、メキシコではこのような誘拐事件が日常茶飯であることが映画の中でも描かれている。人探しのポスターがそこら中にあり、生活雑貨店を営む、ごく普通の女性の息子が誘拐され、身代金を払っている。もちろん、その息子は帰ってきていない。
人が人の命でお金を稼ぐのがもっとも手っ取り早い社会は本当に恐ろしい。命を持ち出されれば、みんな私財を投げ打ってでも取り返そうとする。しかし、その命は戻らない。人質を帰せば、犯人やアジトがわれてしまう。身代金目的の誘拐事件で無事に帰ってくることはほとんどない。それは日本も同じだ。
日本の場合は、多くの人々を非正規雇用にして、生かさず殺さずの江戸時代のような社会に戻っているが、人の命を奪うことが一番簡単に儲かる、と考える人間が今後さらに増えていくのだろう。中間層がいない社会とはそういうものなのだ。強盗と殺人事件がセットになっていく。中間搾取をやめて、富が再分配される社会になってほしいと切に思う。
ラストシーンにほのかな希望を抱いてしまったのだが、このお母さんのモデルになったミリアム・ロドリゲスという方を調べたら、すでに亡くなっていることがわかった。やはり、生きている人間こそが、一番の化け物なのだ。
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