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#映画感想文189『ドント・ウォーリー・ダーリン』(2022)

映画『ドント・ウォーリー・ダーリン(原題:Don't Worry Darling)』を映画館で観てきた

監督はオリビア・ワイルド、脚本はケイティ・シルバーマン、主演はフローレンス・ピュー。ほかに、ワンダイレクションのハリー・スタイルズ、クリス・パイン、ジェンマ・チャンらも出演している。

2022年製作、123分のアメリカ映画である。

いやあ、すごい映画だった。今年一番といっても過言ではないかもしれない。ランキングを提出しろと言われたら、コゴナダ監督の『アフター・ヤン』にするか、『ドント・ウォーリー・ダーリン』にするか、大いに迷う。『アフター・ヤン』は、鑑賞後にセンチメンタルな余韻を引きずるような作品で、この作品は帰り道にずっと「オリビア・ワイルドすげえ、すげえ」とつぶやき続けてしまった。それぐらいすごかった。

何がすごいかというと、社会制度や思想といったものを物語化して作品化することに成功しているからである。

作家の花村萬月氏がどこかで「小説は何かを象徴的に描く必要がある。象徴天皇制のように書くのだ」と言っていた。その言葉が、わたしが創作物を読むとき、観るときの一つの観方・視点になっている。(引用元、典拠が示せず申し訳ない)世の中にある事象や制度を登場人物たちに落とし込み、ストーリーを展開させるのって、それほど簡単なことではない。そのような企みは空回りしがちで、「結局、何が言いたいのか、さっぱりわからない」みたいな作品は多い。この映画はその企みが、見事に昇華できている。

まず、フローレンス・ピューが演じるアリスは、専業主婦で、美しい一戸建てに住み、一日のほとんどの時間を家事に費やし、ご近所さんと立ち話をして、その人たちと同じ習い事のバレエをして、日々が過ぎていく。キラキラしていて理想的な暮らしにも見える。ご近所さんたちの夫も、同じ会社に勤めており、周囲には社宅しかなく、同じレベルの所得の人々が暮らしている。運命共同体のような空間である。

ご近所さんの一人であるバニーは、オリビア・ワイルド監督自身が演じており、これには二つの意味があると思われる。アリスとバニー(うさぎ)と聞けば、『不思議の国のアリス』をみな思い出すだろう。そして、『不思議の国のアリス』におけるうさぎの役割は案内人であり、本作におけるバニーもその役割を負っている。そのうえ、監督自身なのだから、ルイス・キャロルが出てきてしまっているようなニュアンスすらある。つまり、バニーはガイドであり、すべてを知っている創造主でもある。だから、バニーはアリスをいさめるようなことばかり言う。「気にするな」と繰り返す。それは、気付いてしまった女に「目覚めるな。目覚めたら、ひどい目にあうぞ」と警告する女でもある。

アリスは同じような毎日を繰り返している。ある朝、朝食に目玉焼きを作ろうと、卵を割るが、殻だけで、中身がない。どの卵にも、白身と黄身が入っていない。この世界は作り物で、本物ではないと、アリスと観客はうっすら気が付く。

「この暮らしは、幸せだよね。最高だよね」と言われ続け、自分自身を洗脳できた人はいい。あと、考えたくない人、人に任せてしまっていいや、と思える人は、自らその世界に入っていくのだろう。ただ、そうではない人たちもいる。フェミニズムとは、女性自身の自己決定権の獲得を目指す思想であり、女性を所有物として扱いたい家父長制が産んだ鬼っ子なのである。だから、家父長制とフェミニズムは常に対立せざるを得ない。アリスという人物は、フェミニズムを象徴した存在として描かれている。

アリスは、「あれ? わたし、全然、幸せじゃない」と気が付いてしまった女である。で、そんなことは許されない。気付いた女は赤い服を着た男たちに追いかけ回されることなり、追放されることもある。つまり、集団の規則を破ったものとして、パージされてしまう。しかし、それを恐れていたら始まらないのが、フェミニズムでもある。

アリスは気が付いてしまったので、黙っていられない。一方で、夫のジャックは、彼女の訴えを面倒くさそうに受け止める。周囲の人間も、アリスの頭がおかしくなったのだという風に、迷惑そうにする。これって、今のフェミニズムの状況を象徴した描写でもある。

インターネット上でのフェミニズムに対する罵詈雑言はすさまじいが、フェミニズムの本を一冊も読んだことがなさそうな、想像上のフェミニズムが攻撃されているようなきらいもあり、魔女狩りを彷彿とさせる。とどのつまりはミソジニーなのだと思う。

男社会において、目覚めた女は鬱陶しい。にこにこ笑いながら、無償の家事労働とケア労働をして、再生産人口のために子どもを三人産んで(できれば男児を)文句も言わずに育ててくれなきゃ、男社会は維持できない。男が好き勝手に、労働力やその身体を収奪したり、酷使することができなくなってしまった女に存在価値はない。男社会という枠組みの中には、家父長制に基づいた家族が無数にある。男が男に利益を再分配して、女は一人の男から、その男の報酬の一部を受け取って家事労働と子育てをする。「え? 別に家事も子育てもやりたくないんだけど」という女がいても、不思議ではないのだが、そのような女はわがままで自分勝手で地獄に落ちるとまで言われてきた。そして、生活のために、したくもない結婚をしてきた女はたくさんいたし、今でも食べるために結婚する女は世界中にいる。

クリス・パインが演じる社長のフランクは、男社会の胴元であり、その象徴として描かれる。フランクに気に入られれば出世できるし、彼のご機嫌を取ることが最優先。妻であるアリスの表情より、社長の一挙手一投足に振り回される夫(ジャック)の行動は、村社会の男そのものでもある。しかし、妻は村社会のルールなど知ったことかと逸脱していく。(昭和の日本の会社もこんな感じだったのだろうな、と思う)

夫のジャックは、目覚めてしまった女とどう対峙していいかわからない男である。そして、男性の役割(ステレオタイプ)から脱することができず、途方に暮れている、若い男性でもある。

現代の働く女は、男並みに働いて不機嫌で、無償の家事労働をする余裕もないし、男性に対するケア労働を喜んでやろうとはしない。彼は甘やかされないこと、ケアされない自分の扱いに不満を持っている。それに反抗するような形で、ジャックは家事労働のサボタージュをするし、収入も多くはないのに、アリスに献身と奉仕を求める。アリスの愛は欲しいけれど、愛されるための努力はしたくない。(ただ、ベッドシーンが二人の関係性を象徴してもいた。彼女がその気になるような行動がなければ二人の性生活は維持できなかったのだと思われる)

家父長制における強い男性像、働く男、強い父親、妻を従わせる夫のイメージと、今の現実の自分の乖離が激しく戸惑っている。別段強くもなければ経済的な優位性もない、平凡な男であることに折り合いがつけられない。刷り込みの威力は、はかりしれない。だから、懐古主義に陥り、現実逃避をしてしまう。アリスを所有物のように扱うことで満足する。夫は妻に対して責任がある。でも、妻の方は何も知らされていない。

ラストで、家父長制の共犯者として生きていくつもりはないとフランクの妻であるシェリー(ジェンマ・チャン)が、はっきり宣言するシーンで、わたしは虚を突かれた。

わたしはアリスが責められたり、白い目で見られるシーンを何度も見ているうちにフェミニズムはやっぱり殺されるのだ。負けるのだ、と半ばあきらめながら観ていた。アリスは逃げられない。結局、目覚めた報いとして、殺されるのだと思っていた。

ただ、女性監督がそこまで女性嫌悪(ミソジニー)的なオチにする必要がないな、とこの記事を書きながら、気が付いた。

話は少しずれるが、オリビア・ワイルド監督が、ジャック役のワンダイレクションのハリー・スタイルズと恋人関係になったことで、本作が色眼鏡で見られてしまっているのだと知った。傑作であるだけに、とても残念である。

オリビア・ワイルド監督と主演のフローレンス・ピューの仲が最悪になってしまったのも、わからなくもない。最初の相手役(シャイア・ラブーフ)に問題があり降板騒動があり、次の相手役(ハリー・スタイルズ)と監督が恋に落ちるようなことがあれば現場は大混乱である。職場恋愛って、職場恋愛していない人にとっては迷惑極まりないものだ。周囲に配慮して、自制して恋のチャンスを見送ってきた人もたくさんいるから、反発されるのも当然である。その一方で、結局、恋愛というのは、向う見ずな人たちがスリルを感じ、リスクを負ってやるものなのだから、仕方あるまい、とも思う。

このVOGUEの記事を読むと、元妻の成功を許さない夫、自分を降板させた監督を許さない俳優が出てきて唖然とする。降板させられたとしても、男性監督相手にも同じことをするだろうか、という疑問が残る。女が矢面に立って仕事をするのは本当にリスキーで実際に危険もあり、実害もあるのだなあ、と思う。

タヌキ顔のフローレンス・ピューは可愛くて人気もあるが、気難しい感じもなんとなく想像できる。そんな彼女とは対比的にオリビア・ワイルド監督はキツネ顔で一見すると意地悪そうに見える。そんな人が自分に配慮してくれて、率直に話してくれると、そのギャップにやられてしまうだろうな、というのもわかる。

「あれ? わたし、全然幸せじゃない」と気付いて、家族から逃げた女性の、その後の物語は、マイケル・カニンガムの『めぐりあう時間たち』に描かれている。

小さな家父長制である家族から逃げても、その外には大きな家父長制(男社会)があるので、逃げることなんてできやしないのだが、幸せなふりをさせられて、選択肢すら与えられないような社会よりは、孤独な独身が選べるほうが、まだマシなのだ。

男性だって、割に合わないゲームをさせられて、軍隊式の男社会にうんざりしている人も多いだろう。新規参入の女がいるせいで競争が激化している業界や分野も局所的にはあるのかもしれない。でも、ゲームに参加すらできないと、生活すら営めないのだから、参加できないよりは、参加できた方がやはり全然マシなのだ。あちらの地獄と、こちらの地獄のどちらを選ぶかの自由は担保されていてほしい、と切実に思う。

終盤のアリス(フローレンス・ピュー)のダッシュは、家父長制度からの逃走を象徴的に描いたものである。でも、逃げたその先に何があるかは、誰にもわからないし、いまだに誰もわかっていないのだとも思う。もちろん、先が見えない、わからないことは苦痛なのだが、もう過去に戻るという選択肢もないのだ。

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佐藤芽衣
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