#映画感想文162 『プアン/友だちと呼ばせて』(2021)
映画『プアン/友だちと呼ばせて(原題:One for the Road)』を映画館で観てきた。
監督・脚本はバズ・プーンピリヤ、ウォン・カーウァイがプロデュースをしている。2021年製作、128分のタイ映画である。
白血病で余命わずかのウードは、ニューヨークでバーを経営するボスをバンコクに呼び寄せ、自分の旅に付き合ってほしいとお願いをする。ウードは、金持ちのボンボンであるボスに車の運転を任せ、昔の彼女を訪ねる旅を始める。
タイの風景と過去のニューヨークでの記憶のシーンで構成されたロードムービーである。ただ、タイの土着的な側面は描かれず、観光プロモーションのように美しいところしか映されていない。しかも、アメリカへの留学時代に付き合った元カノたちなので、どこか生々しさや生活感には欠ける。
また、主人公男性二人の役者さんの顔が、韓流であることに驚いた。韓国の文化は、イケメンの定義まで変えてしまったのだと思わされた。どちらの俳優さんも韓国系だと言われても違和感は覚えないだろう。(実際、ウード役のアイス・ナッタラットさんは韓国でモデル活動もしているらしい)
なんだか日本のカルチャーすべて周回遅れになっているような気がして、そのことに切なくなってくる。
カットがテンポよく切り替わり、飽きることなく、観られるお洒落な映画だった。
わたしの中で、プロデューサーのウォン・カーウァイは、2007年のハリウッド進出作品である『マイ・ブルーベリー・ナイツ』で、雰囲気だけじゃね? と映画の内容が空疎であると揶揄されていたことを覚えており、ちょっと苦手意識がある。そういえば『2046』は木村拓哉も出ていたな。そして、香港の自治が約束されていたはずの50年、つまり2046年が来る前に、手放すことになってしまった彼らの無念さはいかほどのものであっただろうか。
ボスの昔の恋人であったプリムという女性は、さまざまな評価ができると思う。女性の狡さというか、男性の好意に気付きながら、その恋愛感情と性欲を適当に利用しつつ転がそう、というはっきりとした意図はないものの、気付かないふりをして友達を続けようとする彼女のふるまいにはどこか既視感がある。曖昧なままで、ゆるくやっていきたいという、ある種の煮え切らない態度である。しかし、若い男性は、そんな女性のモラトリアム的な行動を決して許してはくれない。戯れでは我慢ができない。じゃれつくだけでよいのは女性だけで、男性のゴールは結局あれなのだと思わされた。そんなことまで、つらつら考えてしまった。
自分の命が絶えることを知り、人を傷つけたことに向き合うために、過去の人間関係をほじくり返すウードの行動はとても迷惑である。今の生活に昔の人が来られても困るのだ。でも、死ぬんだったら、少しぐらい迷惑をかけたっていいじゃないか、という気もする。
本当に、ちょうどよい距離の人間関係というのは難しい。感情に任せて怒りをぶつけてしまったり、二人の仲を引き裂くための嘘をついたことを悔やみ続けたりする。それは自分の狡さというものに直面させられたからなのだろう、と思う。他人の狡さより、自分の狡さは、もっと罪深いものに感じられる、という感覚はわかる。
二番目の元カノのヌーナーを演じていたオークベープ・チュティモンの主演作である『ハッピー・オールド・イヤー』は逆プアンというか女性版の過去を振り返る物語である。主人公は自宅を改築するため、断捨離を決意する。借りパクしていたものを持ち主に返す旅をはじめ、そこで、元カレと再会していざこざが起こる。昔の人が現れると、今の生活がぐちゃぐちゃになってしまう、という話でもあった。
世界中で面白い映画が創られているのは素晴らしいことなのだけれど、置き去りにされているような感もある。世界中が前進して、振り切られ、取り残されているような閉塞感が単なる錯覚だったらいいな、と思う。
(あと、留学先で同国人とばかり、つるむのって日本人だけではなく、タイ人も同じなのだと思ってちょっと安心した。我々は言語文化から逃れることはできないのかもしれない)