どうでもいいことに怒らない

退職するというのに、腹の立つことが二つあった。

詳細は省くが、激おこぷんぷん丸状態であった。

「でも、まあ、もう、ここ辞めるし、おとなしくしているか」と徐々にトーンダウンした。

そして、冷静になると「そういえば、あの2人って、わたしの人生において全然重要じゃないよな。その人たちに怒る必要ってあるのかな」という気分に変化していった。それはある種の諦念でもある。

どうでもいい人たちのどうでもいい行動に怒らない。それは時間の節約にもなろう。

戦うべきときとは、差別、人権侵害、暴力、誹謗中傷といったところだろうか。

ちょっとしたクレームや悪口雑言は無視してしまおう。

言った方にもそれほど正当性はなく、身勝手なのだから。

わたしは昨今の「怒りを抑えなさい」という号令に懐疑的だ。特に社会的に強者であったり、マジョリティである人間が言っている場合、易々と真に受けてはならない。アンガーマネージメントはもちろん必要だが、苛立ちやカチンとくる己の反射神経を侮ってはならないし、否定してはならない、と思っている。

(もちろん、権力構造、上下関係のなかで負の感情で相手をコントロールするのは、やってはいけないことだ。)

弱者が黙って耐え忍べば、相手は確実に調子に乗り、行為はエスカレートしていく。なぜなら、相手は、無意識だとしても、あなたを弱いものだと認識したうえで、攻撃しているのだから。反撃しなければ、その攻撃を容認したことになってしまう。

弱者に反撃させないように「まあまあ、落ち着いて」というのも、抑圧の暴力である。戦うべきときは戦え。そうでなければ、あなたはさらに舐められ、軽んじられるぞ。This is roubashin(老婆心)である。若者よ、弱きものよ、参考にしたまえ。

単純に怒りを表に出さないと相手に伝わらない、というのもある。

人類の歴史を振り返れば、大衆や労働者、女性、マイノリティが怒りを表明することで、世界は変化してきたではないか。

昔の人々が忍従を最善、最良としていれば、(わたしの階層とジェンダーの問題を鑑みれば)今もわたしは選挙権を持たず、学歴も資格なく、専業主婦で、子どもを5人ぐらい生み、子どもと旦那の面倒を見るだけの暮らしをしていたのかもしれない。ただただ、耐えるだけの暮らしに絶望の中で彷徨っていたか、あるいは旦那や子どもを周囲より抜きんださせるために汲々としていたか。今のわたしからすると、そのどちらも選びたくない選択肢だ。

そう考えると、百姓一揆、フランス革命、民衆蜂起、メーデー、デモ、フェミニズムといった「怒り」を表明する運動が、自らが置かれている状況に不満を感じる人々が数多く存在している、ということを社会に認識させることには、やはり意義がある。もちろん、犠牲を伴うし、よくない側面(暴力行為や更なる差別)を内包をしていることも認める。社会に負の遺産を残すこともあるだろう。しかし、我慢して黙っていれば、「なかったこと」にされてしまう。それは既得権益者を利するだけで、決して弱者を救わない。待っていれば、いいことがあるなんて嘘だ。動かなければ、変わらない。

ただ、まあ、わたしは好戦的な人間なので、喧嘩しないことも、なかなか難しい。それが周囲にわかるのか、実は、攻撃されることは滅多にない(テヘペロ)。

本当、ニコニコ愛想をよくしていれば、周囲に脅威を与えず、ちょっとなめられて、与しやすい女だと思われ、ある種の楽さは手に入る。

ただ、そんな風に振舞ったら「わたしの個性死んじゃう(Copyright 明石家さんま)」だよなあ、と。

男性が女性に勝手な期待を抱き、そこから外れると是正を求められる。そういった家父長制的なルールに負けたくない。これからだって、何度殴られても、立ち上がってやる。敢然と反論して、にらみつけてやる。

わきまえない、不遜な女であることが原因で、不幸になっても、飢え死にしても、本望である。個性や自分の主張を貫きたいのではい。わたしはわたしを殺したくないだけなのだ

でも、それをあいつらにわかってもらう必要はない。

あんな奴、取るに足らない存在なのだから、わたしが去ればいいだけの話だ。

さようであるならば、お別れですね、で済む話ではないか。

本当に、人生で会う人々は、すれ違うだけなのだ。その時間が長いか、短いかの違いがあるだけで。


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佐藤芽衣
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