#映画感想文228『生きる LIVING』(2022)
映画『生きる LIVING』を映画館で観てきた。
監督はオリバー・ハーマナス、脚本はカズオ・イシグロ、主演はビル・ナイ。
2022年製作、103分、イギリス映画。
本作は1952年の黒澤明監督の『生きる』のリメイク作品で、ストーリーはほとんど同じだった。
大きな違いは演出で、志村喬の大仰な演技に比べると、ビル・ナイのそれは非常に抑制的だ。映画評論家の町山智浩さんが指摘する通り、「黒澤映画を小津安二郎風に撮り直した」という解釈で間違いないのだと思われる。
大学生の頃、『生きる』と『七人の侍』を見て、そのすごさはよくわからなかったのだけれど、『生きる』のメッセージは、はっきりわかった。多くの人間は余命宣告されることはない。しかし、誰しもが余命を生きていることは間違いない。
主人公のウィリアムズは若い女性の部下であるマーガレットに「ミスターゾンビ」というあだ名をつけられ、「死んでいるけれど生きていて、まだ動ける」などと評される。結構、辛辣だ。若者からすれば、日常を淡々とこなして、死を待っているような人に見えている事実に彼はショックを受ける。
永遠に生き続けると勘違いして、日々を省エネしている人間は、みんな「ミスターゾンビ」なのかもしれないとも思う。
わたしは貧しい老人になって、路上で息絶えることを恐れて働いているようなところがある。それと同時に、死ぬときのこと、死後に遺体が腐ることを心配して何になるのだろう、という気持ちもある。だって、そのときは死んでるんだから、どうしようもないはずだ。
余命がわずかであると告げられた彼はタイムリミットを意識して、その日にできることを精一杯やることに決める。周囲の人を動かすために辛抱強く説得を続けるようになる。
「わたしは一人で暇潰しができないんだ」という彼の言葉は刺さる。そうなのだ。一人遊びが延々と続けられるほど、人間は強くない。どうしても人とのつながりを求めてしまうし、それだけでなく何らかの報酬もほしくなる。となると、多くの人にとって、人生における暇潰しで最もやりがいがあるのは「仕事」ということになるのだと思われる。仕事でなくとも、何らかの課題を自分に作ることになるはずだ。タスクの設定が小刻みに見事なまでに設計されているのが、現代のゲームでもあるだろう。
働かなくてもいいお金持ちが一番時間とお金を使うのは「社交」であるし、現代のお金持ちの多くは働くことを選択する。それは「労働」が社会とつながる手っ取り早い方法だからなのだと思う。
ウィリアムズが息子を思って、病を告白しなかったこと。葬式の際、マーガレットがそれを知っていたことをはっきりとは言わなかったことなどは、まさに抑制的なイギリス人という感じがした。儀礼的にふるまうことが作法である、というところは、イギリスと日本の共通している文化だと本作の脚本家のカズオ・イシグロも指摘していた。その描写を堪能するのも悪くない。(ただ、からっとして、あけすけな文化も嫌いではない。本当、いろんなふるまいがあっていい)
そして、このリメイク版は102分で、オリジナルは142分。40分も短くなっているというのも興味深い。おそらく黒澤の説明は長いのだ(笑)。