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ぶり返す怒り PART2

今、資格試験に向けて、勉強に励んでいるのだが、書く作業をしていると、急に過去の嫌な出来事を思い出して、ブチキレる、ということを繰り返している。

2021年9月17日にも、ぶり返す怒りについて書いている。日記って書いておくものだ、と改めて思う。

これは思考の癖でもあるし、まだ、いろんな恨みつらみを解消できていない、ということでもある。

かれこれ、「怒り」との付き合いは長い。小さい頃は、泣いていたのだけれど、あるときから、怒って反撃するようになった。まあ、泣いていたら、相手が余計につけあがり、増長し、攻撃されると思ったからなのだろう。その判断は間違ってはいない。

まあ、そもそもの「怒り」は、親が原因で、親に対する憎悪は消えないのだけれど、今は物理的にも心理的にも離れているので、どうとも思わない。「親殺し」をすることでしか、生きていけなかったのだから、しょうがあるまい。(「親殺し」というのはエディプスコンプレックス的な意味ではなく、親と関わらない、という意味で使っている)

わたしの「怒り」の矛先は、いろんなところに向けられ、傷つけてしまった人もいる。悪かったとは思うが、どうしようもできなかったのだ。わたしは悪くなかった、と言いたいわけではない。わたしが悪かった。悪かったのだけれど、どうすればよかったのだろう。

そして、パワハラ上司や腹立たしい同僚についても、怒りがふつふつと沸いてきて、叫びたくなる衝動に駆られる。

本当に、脳みそというのは、暇になると、余計なことを思い出す仕組みになっているらしい。

わたしは被害者であり、加害者でもある。

だから、被害者にもならず、加害者にもならずに生きられる人たちが心底うらやましい。そういう人たちが、愛し愛され仲睦まじく暮らしているのだろう。でも、その人たちは、わたしとは別の、平行世界に生きているのだ。わたしは人を憎んで、恨んでいる。同時に、憎まれ、恨まれてもいるのだろう。お互い様だ。

ただ、これも妄想だとわかっている。何の屈託もなく生きている人なんていない。みんな、何かを得るために演じたり、自分を変えているのだ。わたしは自分のストーリーをなかなか書き換えられずにいる。歴史修正や改ざんではなく、生きていくための解釈変更は、いつしてもいいのだが、できない。

わたしの数少ない長所は、空想やファンタジーに逃げなかったところだと思う。現実を見て見ぬふりをして、直視せず、妄想の世界に生きている人もいる。誤魔化しは永遠には続けられない。悲劇のヒロインにはなりたくなかった。

しかし、嫌な出来事は、乗り越えても問題ないのに、なぜ「過去は克服して今が最高!」と言えないのだろう。そこは、やはり、ある種の「怠惰」なのだと思う。それは、また別の機会に考えたい。

ただ、「怒り」は、思い出すだけでも、とても疲れる。

何というか、怨念とか、祟りとか、そういうものが、物語のモチーフであり続けた理由がわかったような気もする。そう簡単には消えないのだ。「感情」と「記憶」を侮るべからず。

この「怒り」が何かの伏線で、いつか回収されて、大団円のハッピーエンドになればいいのだけれど、そんなものはないのだろうな、とも思う。

わたしにできることは「考えないこと」なのだ。考えないためには、何か新しいことをして、忙しくするしかないのだろうな、と思う。

以前より、進歩したのは、「あ、怒っているな」と自分を客観視できるようになったことと、この「怒り」のエネルギーを使って、バネにして、と考えなくなったことだ。

「怒り」は「怒り」で、そのまま、放置する。再利用して、何かに使わない。

でも、正直、やっぱり、どうにもこうにも、鬱陶しい。それが「怒り」である。

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佐藤芽衣
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