キャロライン・クリアド=ペレス著『存在しない女たち』の読書感想文
キャロライン・クリアド=ペレスの『存在しない女たち 男性優位の世界にひそむ見せかけのファクトを暴く』を読んだ。翻訳は、神崎朗子さんで、2020年に河出書房新社より出版された本である。
原題は『Invisible Women: Exposing Data Bias in a World Designed for Men』で、見えない女性、透明人間である女性といったところだろうか。
ペレスさんは、ブラジル生まれの英国国籍のジャーナリストで女性権利活動家である。
本書を通底しているのは「怒り」であり、著者はそれをまったく隠さない。不平等、不公平、空気のように存在する差別を一つずつ統計や論文をもとにピックアップしていく。
さぞや、根気のいる作業だっただろう。
人類のデフォルトは男性であること、それが女性にとっていかに過酷な状況を招いているかを彼女は丹念に取り上げていく。男性が読んだら、うるさく感じるかもしれないが、女性が読めば単なる「あるあるネタ」に過ぎない。
イントロダクションのp.13で触れられているのだが、2013年の国連の調査によれば、世界の殺人犯の96%は男性であったらしい。しかしながら、男性という性別が問題視されることはほとんどない。「殺人犯の4%は女性なのだから、女性にも問題があるでしょう。男性だけの問題だとは言えません。殺人を誘発しているのは女性で、女性に問題があった可能性も否定できません。普遍的な人類の課題ですよね」とか言い出しかねない、とわたしは思っている。女性はそういう論法に慣れっこになっていて、反論するのも面倒くさくなっている。
映画の例には驚いた。映画や物語の配役は、バランスよく作られていると勝手に思い込んでいた。
男性のほうが配役が多いだけでなく、スクリーンに映る時間も平均で2倍多い。男性が主役の場合(大半の映画はそうだ)、その差は3倍近くになる。女性が主役の場合にかぎって、男性と女性がスクリーンに映る時間が同じくらいになる。(中略)それに男性のほうがセリフも多い。全体的に男性のセリフは女性の2倍だ。
『存在しない女たち』p.23
第2章で取り上げられるジェンダーニュートラルなトイレの話は、考えてみれば誰にでもわかるのに実行されてしまった悪例である。ジェンダーニュートラルとは、男性をデフォルト(基準)と考えるため、女性に多くの不利益をもたらす。
第4章では、職場で女性は個人的な批判(偉そう、無愛想、きつい、攻撃的、感情的、非理性的)に晒され、男性はほとんどそのような評価をされていないことが指摘される。わたしも、これは実感としてわかる。男性は感情的に振舞い、部下を威嚇しても、それが決定的なマイナス評価にはならない。一方で、女性はそれを理由に出世が阻まれたりする。そして、優しや気遣い、犠牲的な献身が期待され、強要される。その鬱陶しさは、残念ながら、わたしが10代の頃と比べても、そう大きくは変わっていない。
本書では生活や職場、社会制度、薬、災害といった、ありとあらゆる場面における問題点が列挙されていく。
この本を読んで、女性は溜め息をつき、男性は反駁したくなったかもしれない。
実はわたしは全然違う印象を持った。この本はネタ本であり、アイデアの宝庫である。社会をよりよく変えていく、あるいは新しいビジネスチャンスにもなり得る。
弱者にとって住みやすい社会は、弱者になりうるすべての人々に利益をもたらす。わたしたちは老いていけば、基本的に弱くなるのだし、明日事故に遭って障害を持つ可能性は誰にでもある。
しかし、男性が人類のデフォルトという考えは根深い。イブはアダムの肋骨から生まれたという聖書のエピソード(誤訳らしいが)なんて、子どもの頃から、おかしいと思っていた。男は「種(遺伝子)」の運び屋で、子どもを生めるのは女性なのに、なぜ女が男から作られたのだろう。逆だろう。
著者のチャレンジには拍手を送りたいが、現実に戻れば、女性は身体的に弱いので、男性と対峙して、身を守ることは難しい。だから、ヤバいと思ったら、動物的な勘を信じて逃げるしかない。勇気ある撤退という戦略を常に持っておく必要がある。
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