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#映画感想文238『ワンダ/WANDA』(1970)

映画『WANDA ワンダ』(1970)を映画館で観てきた。

監督・脚本・主演がバーバラ・ローデン。

1970年製作、103分、アメリカ映画。

主人公のワンダは何らかの問題を抱えているが、詳しいことはわからない。家事と育児の放棄を理由に夫に離婚裁判を起こされてしまう。お金もなく、絶体絶命のピンチであるが、彼女は焦ったり慌てたりしていない。おそらく、彼女の人生において、そのような仕打ちを受けたことが何度もあり、ひどく扱われることに慣れている。何とかしようとか思わず、流れに身を任せる。どうにでもなれ、という女性の絶望が見え隠れする。

そんな彼女は立ち寄ったバーで、トイレを借りる。そのバーのカウンターにいたのは、実はバーテンダーではなく強盗で、彼女に見られてしまった強盗は、彼女を逃亡の旅の道連れにする。彼女はその事実を知っても、あまり狼狽しない。

強盗の男に服装にケチをつけられたり、口ごたえをするなと頬を叩かれたりしても、彼女はびっくりはしても、泣いたりはしない。我慢することが当たり前で、男性への期待値が低く、これといって何かを要求することもない。男性からしてみれば、これほど利用しやすい女性はいない。ワンダは便利使いされ、俺の前でズボンを履くな、と言われれば服装まで男の好みに合わせるし、買ってきたハンバーガーにケチをつけられても反発したりしない。

女性が教育を受けられず、働く機会を得られない社会だと、どこまでも女性は安くなっていく。ワンダは一晩雨風をしのぐためだけに男と寝てしまう。売春婦にすらなれない女性の悲劇がそこにはある。

そうか、たたき売りされる女は、エリートでもないクズのような男でも手にすることができる。何も持たない女は自由に使える男のおもちゃのようだ。女性に教育の機会も、働く機会も与えたくない人々の心理が、ワンダを見るとわかる。ワンダのような女性を支配するのは俺にもできそうだと感じるのではないか。

ワンダには「今」しかない。その悲劇性が誇張も強調もされず、描かれている。そして、このような女性が人生を変えるには、男性にどこかに連れて行ってもらうしかない。だから、ここではないどこかへ連れて行ってくれそうな男に何も考えず、ついて行ってしまう。その淡い期待はもちろん粉砕される。彼女のような人物は、社会の中では見えない存在で、いない者とされてきた人だ。身近にいたら、彼女は困った人だろう。しかし、そのような困った人はどこかに確実にいる、と思わされた。

バーバラ・ローデンのすごみがそこにあり、本作が高く評価されている理由が少しわかったような気がした。

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