見出し画像

#映画感想文327『チャレンジャーズ』(2024)

映画『チャレンジャーズ(原題:Challengers)』(2024)を映画館で観てきた。

監督はルカ・グァダニーノ、脚本はジャスティン・クリツケス、出演はゼンデイヤ、ジョシュ・オコナー、マイク・ファイスト。主演のゼンデイヤはプロデューサーも務めている。

2024年製作、131分、アメリカ映画。

男女の三角関係を描いた古典的な恋愛映画ではあるが、新しい視座もあり、131分間、飽きさせない、凄まじい展開を見せる映画だった。

(今回の記事も盛大にネタバレしていくが、わたしのテキストは批評ではなく、感想文なので、作法を知らない小学生のように自由に書くことをあらかじめことわっておく)

タシ・ダンカン(ゼンデイヤ)は高校生にしてスタープレイヤー。adidasはおそらく彼女のスポンサーであり、彼女はadidasの広告塔でもある。地域社会のために寄付をして、自分の名前を関したファッションブランドやサプリメントの販売までしている。そのままプロテニス選手になるのではなく、彼女はスタンフォード大学への進学を選ぶ。

パトリック(ジョシュ・オコナー)とアート(マイク・ファイスト)は幼馴染で切磋琢磨してきたテニスプレーヤー。彼らはダブルスを組んで優勝をしたり、ジュニアの大会の決勝では対戦をすることになる。ジュニアではトップクラスの選手。パトリックは大学には進学せず、プロテニス選手になることを選び、アートはタシと同じくスタンフォード大学に進むことを決めている。

タシが優勝した、その夜のパーティーで、三人は出会う。タシの試合を見に行こうと誘ったのはパトリックで、アートはそれに引きずられる形で、彼女に一目ぼれする。でも、これって、ぼくの大好きな男の子が好きな女の子だから、ぼくも大好きっていう典型的なホモソーシャル的ホモセクシュアルを予感させるものであった。

タシとアートはスタンフォード大学に進学する。パトリックはプロテニス選手となり、タシと付き合うようになる。タシはパトリックにアドバイスをしてコーチのようにふるまう。パトリックはそれを拒絶する。「ぼくたちの関係は対等であるべきで君の指図は受けない」と。一方のタシは「ただのガールフレンドやセフレがほしいならわたしと付き合うべきではない。わたしは一流のテニスプレーヤーで、だからこそあなたと付き合っている」と述べる。

この物語で重要なところは、彼女が誰よりもテニスという競技を愛している、という点にある。テニスオタクでもあり、誰よりも勝つことにこだわっている。彼女にとって、テニスは人生のすべてなのだ。パトリックとアートにとってもそうなのだが、家族を養っているタシとは少し気迫のレベルが違う。

そして、パトリックと大喧嘩したあとの試合で、動揺していたタシは脚の怪我をして選手生命を絶たれてしまう。喧嘩を理由に試合を見に来なかったパトリック。大怪我を負ったタシに真っ先に駆け寄ったアート。タシに夢中になっているのはアート。選手を引退したタシは、ほかのことをすることはできず、テニスと関わるため、コーチとなる。その数年後、タシはアートを訪ね、アートのコーチとなり、妻となり、一女をもうける。アートにとってタシはミューズである。タシは自分が彼に崇められていることを知っている。アートのコーチとなり、試合で勝たせることで自分の叶えられなかった夢を叶えようとする。それは明らかに代替行為で、夫となったアートは自分が利用されていることもわかっているが、彼女に捨てられたくないという一心で、三十を過ぎても競技生活を続けている。タシはアートを自分に依存させ、支配して、自分の分までプロテニス選手として成功を収めさせたい。この野心家っぷりはすごい。

タシは恋愛の部分でも、あきらめない。あきらめきれない。クズっぽいパトリックに惹きつけられてしまう自分を抑制しないのか、抑制できないのか、ふらふらしている。彼女は自分自身の魅力で二人の男を翻弄して支配できていると思っている。それが大きな、大きな誤算である。人の感情、セクシュアリティはそれほど単純なものではない。

この映画は十代、二十代、三十代の彼らの過去が、チャレンジャーズというテニスの小さな大会の決勝戦、パトリックとアートの試合の中で錯綜していくという構成になっている。試合の臨場感、演出がテニスという競技に対するリスペクトを感じる。ボールの視点カットや、球を打ち返す側の選手にボールが飛んでくるカットもあり、映画館で席にボールが飛んでくるようで「うわ、あぶねえ」というVR的な体験もできる。緊迫した心理描写と試合が重なるので、観客も翻弄される。

サウンドトラックには四つ打ちのEDMが使われているのだが、これは選手がショットを打つ前に、テニスボールを地面にバウンドさせるときの音から着想を得たものなのだろう。

上映時間の125分は単なる前戯で、126分のラストシーンで絶頂に達するための方便に過ぎなかった。(エンドロールは5分ぐらいだと計算している)

タシの「Come on」という怒声は「てめえら、ちゃんと試合しろよ」という意味であり、その怒りの直後に見せる涙目は「二人を支配して、その気になればどちらも手に入れることができると思っていたのに、わたしはあんたらの欲望の外側に置かれていただけなのか」という絶望である。あの演技を二秒でできてしまうゼンデイヤはおそらく死ぬまでハリウッドのスーパースターでいられるかもしれないと思わせる凄みがあった。

日本の作品でいえば、彼らは『源氏物語』の薫と匂宮、浮舟であり、夏目漱石の『こころ』先生とK、お嬢さんの関係とよく似ている。ただ『チャレンジャーズ』の場合、男を翻弄することで支配を試み、結局、失敗する。明らかな敗者である点では、彼女は浮舟より深い絶望を感じているかもしれない。

「白人の赤ん坊二人の面倒を見ているのよ」「わたしはお母さんじゃないのよ」と言いながら、彼女は自身の女性性をうまく利用して、男を操れていると思い込んでいたが、一方で彼女自身もうまく利用されてもいたのだろう。

まあ、ルカ・グァダニーノ監督が、普通のヘテロセクシャルのストーリーなんかで終わらせるなんて思ってなかったけれどね。(「おまえの女房とやったぜ」というボールの打ち方があるなんて、男って本当に最低だと思わせるには十分な描写だった)

脚本家のジャスティン・クリツケスのインタビューも面白かった。

それはまず、2018年の全米オープン女子シングルスで、決勝戦に臨んだ大坂なおみとセリーナ・ウィリアムズ。このとき大坂はウィリアムズを破り、初優勝を果たした。

そして、ゼンデイヤが演じる「タシ・ダンカン」のキャラクターが具体的に彼の頭に浮かんだのは、それからおよそ1年後の2019年。ウィンブルドン選手権の男子シングルス決勝戦、ノバク・ジョコビッチとロジャー・フェデラーの試合を観戦していたときだったという。

この試合の観戦中、クリツケスが特に注目していたのは、フェデラーの妻、ミルカだった。『GQ』誌に対し、「彼女は試合中ずっと、とてもいら立っているようだった」と話している。

「なぜそんなにイライラしているんだろう? と考えていました」「あなたたち(フェデラー夫妻)は世界有数の金持ちだ。(ロジャーは)グランドスラム(4大大会)を20回も制覇している」「何にそれほど強いストレスを感じているのだろう? 何か別のこと(が原因)に違いない」

そして、ミルカについて調べたクリツケスは、彼女がテニス選手だったこと、そしてケガのために短期間で選手生命を絶たれていたことを知った。
「彼女はフェデラーのマネージャーのような存在になりました。そして、彼の人生も管理してきました」「彼は、(自身の成功は)彼女に負うところが大きいと認めています」
作品のなかでは、ひざのケガが原因で選手としてのキャリアを断念したタシが、夫であるアート(フェイスト)のコーチとして、マネージャーとして全力を尽くす。

ELLE

フェデラー夫妻のエピソードから構想を練り上げていったと知り、こういう夫婦関係、男女関係はあるあるなのだと思い至る。

高校時代に自分がコテンパンに負かした女子選手がメジャー大会で優勝したというニュースにタシは表情一つ変えない。無表情を決め込んでいるが、悔しかったはずだ。やはり、人間は誰かを自分の身代わりにしたところで満たされることはない。自分を喜ばせることができるのは自分の成果だけで、別の誰かではだめなのだ。大怪我をしないぎりぎりのところまで負荷をかけなければいけないアスリートという職業は本当に大変だ。

そして、三人の役者さんはテニス選手を演じるために肉体改造をしたのだろうと思われ、そこのストイックさはすごいなと思う。

あと映画はあんまり期待せずに行くと良いと改めて思った。映画館鑑賞後から、この記事を書いている最中もずっとにやにやしている。それぐらい面白かった。2024年の映画は、多分、これが一位だと思う。


いいなと思ったら応援しよう!

佐藤芽衣
チップをいただけたら、さらに頑張れそうな気がします(笑)とはいえ、読んでいただけるだけで、ありがたいです。またのご来店をお待ちしております!

この記事が参加している募集