EMMA 『象』
SCOT SUMMERシーズン2024にて観劇。TOPの画像はSPAC-静岡県舞台芸術センターのFacebookからお借りしました。
別役実『象』のあらすじと解釈
2009年に新国立劇場で上演された際のあらすじ紹介が正鵠を射ているため、まずはここで引いておきたい。
病人の叔父は被爆1世、甥は被爆2世である。叔父は目に見える戦争の傷(背中に負ったケロイド)を持ち、甥の染色体異常は目に見えない。となると、社会に対する関わり方もそれぞれ異なり、それが叔父と甥との意見の相違にもなって物語が展開していく。
被爆1世・2世についての研究はあるようだが、この戯曲の主眼にあるのは、具体的な被爆1世・2世がどういう心理的傾向を有するのかということより、敗戦から15年以上が経ち、戦争の記憶自体にフタがされ、風化していくその状況、原爆被害者から興味が失われていく社会をこそ描いているように自分は感じた。
別役実が問いかけること
別役戯曲について平田オリザは、時代によって読み方が変わり、しかしそれでいてアクチュアリティを持つと評しており、これはもしかしたら別役戯曲に限った話でもなく、自分の感想にしても今だから上記のように感じているだけとも思うのだが、2011年『マッチ売りの少女たち』再演時のアフタートークで別役実が語っていた話というのが、ここに関連しているようにも感じる。以下の動画で、早稲田大学演劇博物館館長の岡室美奈子氏がそのエピソードを紹介している。
このイベントは3.11後のタイミングで行われたそうだが、曰く別役実は、復興とか絆とか簡単に言われすぎているのではないか、日本人は無常観の中から何者かを見出す、もっと徹底的に悲しんでその底から新しい何かを見出すのに、悲しみ足りていないのではないか、悲しませないで復興とか絆とか言うのはおかしいのではないか。という趣旨の発言をされたようだ。
バブルの真っ只中に生まれた自分にとっては、先の戦争もそうだ。戦争に負けたことを、あるいは戦争にこの国が関与してしまったことを、徹底的に悲しんでいるか。あるいは自分に限らず日本人は先の戦争を今も悲しく思っているのか。それを問いかけられているように、2024年の自分は感じた。
別役実とその時代
SPACの役者陣も素晴らしかったが、やはり戯曲が素晴らしい。今は鈴木先生の「私の履歴書」が日経新聞紙上で連載されており、自分としてはただただありがたいという気持ちでいっぱいなわけだが、戯曲に関わる別役実とのエピソードもそこで紹介されている。
青春ですな。是非、朝ドラにしてもらいたい。
今回、利賀では鈴木先生のトークにも当然参加して、ありがたいお話を託宣のごとく浴びて帰ってきたわけだが、そこではこの『象』の書き直しの話にも少し触れられていた。戯曲の体をなしていない状態のものを別役氏に見せられた鈴木先生が構成を指示してやり直させた、というような話だったのだが、実態は共作に近いのだろうか。ここは是非、研究者の方にもご意見伺ってみたい。
あと、酷評とされたこの当時の演出はどのようなものだったのだろうか。今回のEMMA氏による『象』の演出はミニマルで素晴らしかったが、往時の演出も気になる。
不条理劇とは
最後に、別役氏が「不条理劇」について語っている動画を見つけたので、そちらも置いておきたい。
曰く、60年代は不条理であることが一つの主張・反逆であったが、70年代・80年代を経てそうした要素は無くなっていった。今の若い人の脚本の中には普通に入っている….ということだが、世の中が不条理であることが当たり前になったということなのだろうか。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?