第28週 作家 橋田壽賀子
はじめに
第28週目の作家・歌人・漫画家のカテゴリーの女性は脚本家、劇作家、タレントの橋田壽賀子さんです。
お生まれ
橋田 壽賀子(はしだ すがこ)さんは1925年(大正14年)5月10日 日本統治時代の京城(現:大韓民国・ソウル)で旧大日本帝国外地生まれの日本人として生誕されます。一人っ子で若くして両親を亡くされているそうです。
勉学のため帰国するまでの9年間を朝鮮で過ごされます。
学生時代
帰国後は大阪で育たれ、大阪府立堺高等女學校(現:大阪府立泉陽高等学校を卒業されます。
女学校時代は文章が苦手だったそうです。その当時、日本軍兵隊への慰問文がコンクールで入賞したこともあったそうですが、それはお母さんが壽賀子さんの名前を使って書いたものであったそうです。
上京され日本女子大学文学部国文学科卒業されます。卒業論文は「新古今和歌集における<つ>と<ね>の研究」だそうです。
この後、東京大学を受験するも失敗されます。
壽賀子さんは学者になる事を諦め、同時に受験をしていた早稲田大学文学部国文科に入学されます。
その後芸術科に転科の演劇専修に移り、中退されます。
早稲田大学在学中には学生劇団「小羊座」に入って役者を務めたほか、久板栄二郎氏の脚本塾に通って演劇の執筆を始めたそうです。
脚本家へ
1949年(昭和24年)、松竹に入社して脚本部所属となり、松竹最初の女性社員となった。
最初の脚本の仕事は、1950年(昭和25年)公開の映画『長崎の鐘』(監督:大庭秀雄)における新藤兼人氏の手伝いであったそうです。
初めて単独で脚本を執筆した作品は、1952年(昭和27年)公開の映画『郷愁』(監督:岩間鶴夫氏、主演:岸恵子さん)だそうです。
1959年(昭和34年)、秘書への異動を提示されたのを機に松竹を退職され、独立作家となる。
ただし、それから3年間ほどはテレビ局へ原稿を売り込みに行っても採用されなかったため、小説や漫画の原作を書くなどされました。
1964年、『袋を渡せば』で作家デビューされます。
同年、東芝日曜劇場『愛と死をみつめて』の脚本が話題となり、テレビドラマの脚本家として名を高めた。
結婚
壽賀子さんは41歳の誕生日であり、東京放送の創立記念日でもある1966年(昭和41年)5月10日、当時TBSプロデューサーだった岩崎嘉一氏(誕生日の関係で5歳あるいは4歳下)と結婚されます。結婚式の仲人は友人の石井ふく子さんが務められたそうです。
その後「大衆に受け入れられてこそ価値のある作品」という信念のもと、数多くの作品でヒットを飛ばされます。
まず『おしん』(1983年 - 1984年、NHK)の脚本を書かれます。
夫の闘病生活
岩崎氏が1988年9月24日に肺腺がんの宣告を受けることになります
壽賀子さんはもしこのことを夫が知ったら自殺するのではないかと思い、「夫には本当のことを言わないでください。お願いします」と頼んだそうです。
そして医師は渋々、「では肋膜炎ということに」と答えられました。
壽賀子さんは翌年元日から始まるNHKの大河ドラマ「春日局」の準備をしていたそうですが、岩崎氏の看病をしながら1年続くドラマの脚本を書き上げる自信がなく、石井さんに相談すると「いま番組から降りたら嘉一ちゃんは、自分ががんだって気づくかもしれないよ」と首を横に振ったそうです。
この辺りは石井ふく子さんの回でも取り上げました。
夫・岩崎氏からは「どんなことがあっても、俺の前で脚本を執筆するな」と言われて、壽賀子さんは主婦業に手を抜かず、岩崎氏が寝ている時や不在の時に執筆活動されました。これを岩崎氏が死去するまで徹底的に守り通したそうです。このようなご自身の経験から壽賀子さんは日本で離婚が増加してきたことについて、「結婚に男女平等はあり得ない」「若い人たちが相手に何かを求めすぎている」と苦言を呈されたことがあるそうです。
晩年の岩崎氏とは、別荘地として知られる「熱海自然郷」で暮らされています。
1989年(平成元年)9月、死別されます。
壽賀子さんは当時を振り返り「私は若くして両親を亡くしている。一人っ子なのできょうだいもいない。そしてたった一人の家族だった夫を、こうして失った。」と述べておられるそうです。
そして岩崎氏の遺言である「不倫と人殺しの話は絶対書くな」という言葉を守っているそうです。
1992年(平成4年)、亡夫の岩崎の遺産などを元手に「橋田文化財団」を設立されます。理事長に就任し、橋田賞を創設されました。
1992年(平成4年)、亡夫の岩崎の遺産などを元手に「橋田文化財団」を設立。理事長に就任し、橋田賞を創設した。
タレント活動
1990年代になって 『渡る世間は鬼ばかり』(1990年 - 2019年、TBS)が始まります。
また1990年代後半、その独特の風貌(加藤浩次からは「ミニラ」と呼ばれた)やキャラクター、物言いが女子高校生などに受け、改編期に壽賀子さんのの旅番組が制作されたり、フジテレビ『森田一義アワー 笑っていいとも!』(1998年 - 2001年)にレギュラー出演したりするなど、一時期はレギュラー番組を多数抱えるようになられました。いわゆる「スガコブーム」です。
しかし、相手のトークを遮って突然喋り始めることもあり、基本的にバラエティ番組に不向きな性格だったことが次第に明らかになって、「スガコブーム」は終わりを告げたそうです。
ただし、橋田本人は「話好き」「目立ちたがり屋」と公言しておられ、声がかかればテレビ番組にも積極的に出演していることから、他の著名脚本家と比べればメディアへの露出度は群を抜いて高いそうです。
特にTBSの番組には、自身の番組宣伝も兼ねて出演することが多く、期首期末特番『オールスター感謝祭』などにも頻繁に登場されていました。
また公私共に親しい泉ピン子さんと一緒に出演することも多かったそうです。
また、笑っていいとも!での共演して以降中居正広氏や香取慎吾氏がMCを務める番組への出演は度々あったそうですが、2017年11月15日放送の「おじゃMAP!!」では、SMAP解散後、元SMAPメンバーとの初共演となったそうです。
また、『渡る世間は鬼ばかり』に出てくる若者は(インタビュー当時から見た)現代の若者のような人物ではないと話していた。一方で「一流の脚本家は、山田太一、倉本聰、向田邦子。だから私は二流」と謙遜してされていました。
2014年(平成26年)5月、『女性自身』で、同年4月開始の『なるようになるさ。』第2シリーズの視聴率低迷が主たる理由で脚本家業の引退を示唆していると報じられたそうです。
橋田本人は同誌の取材に対し、「引退したいですよ。でも、させてもらえないでしょうね」と語られたそうです。
2015年(平成27年)8月20日、フジテレビ『ノンストップ!』のインタビューで「今の俳優さん達、名前も分からない。これじゃ(脚本)書けないから仕事が来ない」「ミステリーとか不倫ものとかばかり。普通のホームドラマが生きられない時代になった」と語り、改めて脚本家引退を示唆したそうですが、その後引退報道に関する週刊女性の取材に対して「お仕事はまったく来ないです。いま、ホームドラマなんかやるところはないですから。私の時代じゃないと思いますよ。でも、引退はしません。また私が書きたいものを書かせてくれるところが出てきたら書かせていただきます。ただ、今はお休みして、充電中です」と引退を否定されたそうです。
2015年(平成27年)10月30日、日本政府より脚本家として初(監督作品も存在する脚本家を除く)となる文化功労者に選出されたことが発表されました。
壽賀子さんは静岡県熱海市に岩崎氏の死後も済まれ
来宮神社の氏子としても知られ、当地熱海市上多賀・同西山町の賛同する付近の民芸品店などには、橋田ドラマの掲示が数多く掲げられているそうです。
また、毎年節分に来宮神社で開催される豆まきには、20年以上参加しているそうです。
自宅は相模湾沿いから比較的近く、地元から手伝いに訪問する同年代のファンも多いそうです。
橋田壽賀子さんの脚本について
「大衆に受け入れられてこそ価値のある作品」という信念のもと、数多くの作品でヒットを飛ばした。『おしん』(1983年 - 1984年、NHK)や『春日局』(1989年、NHK)、『渡る世間は鬼ばかり』(1990年 - 2019年、TBS)など、いずれも後世に残る作品を書かれています。
NHKやTBSの制作作品で脚本を担当することが多く、テレビ東京での仕事はまったくないそうです(これは同局がドラマをほとんど放映しないことも原因しているようです)。
壽賀子さんの脚本の台詞は長く、演出家や俳優による台詞の変更、アドリブを許さないことで有名です。
(橋田作品で主役級である泉ピン子さんは「自分の台詞が台本1ページもある」と語ったこともあるそうです)。
助詞(「てにをは」)一字の言い間違いすらも許されず、アドリブも一切禁止とされる(松竹時代、脚本を担当した映画の撮影過程で、監督から「映画は絵で見せるものだから(台詞を)もっと短くしろ」と言われたり、俳優たちが台詞を勝手に削ったりしたことによる映画界への反発・怨念によるもので、「映像なんて信じていない」という信念から来るものと言われているそうです。
もはや死語となったような上品な表現の台詞が多く発せられるのも特徴だそうです。
主なものとしては、「作る」を「こしらえる」、「味噌汁」を「おみおつけ」、「〜して頂く」や「〜させて頂く」などの謙譲語の多用が挙げられる。
これは「長幼の序をはっきりさせ、きれいな日本語をテレビだけでも使いたい」という思いによるものであるそうです。
長台詞については、「主婦が家事をしながらでも、テレビ画面を見ることなく台詞のみで話の筋が分かるように配慮している」(=ラジオドラマ化)ともインタビューなどで述べているそうです。
橋田ファミリー
壽賀子さんのドラマには泉ピン子さんなどに代表される、「橋田ファミリー」に属する役者が頻繁に起用される。
ただし、ファミリーのみでのドラマ制作は無論限界があり、かつ、主人公を演じられる俳優は限られるため、赤木春恵さん、山岡久乃さん、八千草薫さん、渡辺美佐子さん、池内淳子さん、佐久間良子さん、宇津井健氏、泉ピン子さん、橋田の盟友・石井ふく子さんと共に高く評価していた三田佳子さんや大原麗子さん、石井親子と二代に渡り交流のあった杉村春子さん、山村聰氏や森光子さんなどが主役・準主役・あるいは特別出演扱いで出演しているそうです。(森繁久彌氏とは接点がなかったそうで出演はないそうです)。
丹波哲郎氏や小林桂樹氏も重要な役どころで出演しており、いかりや長介氏や伊東四朗氏が役者として活躍するきっかけともなったそうです。
また俳優として努力する様子に感じ入ったというガッツ石松氏も、良い役を与えられ、幾度となく出演しています。
子役は坂上忍氏、伊藤淳史氏、えなりかずき氏に目を掛けていたそうです。
また、イケメン・美女・美少女を登場させる場合には、ジャニーズ事務所、石原プロモーション、オスカープロモーションからの出演が目立つそうです。
多くの橋田作品のプロデューサーを務める石井ふく子さんとは公私ともに親しく、「石井さんには(石井プロデュースではない作品でも)何でも相談する」と公言しておられるそうです。
作詞
自らの作品を題材にした『おしん音頭』『渡鬼音頭』で作詞を手がけるが、両曲とも作品の雰囲気から大きく逸脱しているとして物議を醸したことがあるそうです。
ちなみにこの歌はカラオケにあるそうです。
めぐめぐがすごいと思う橋田壽賀子さんのこと
1学者を目指し諦め、脚本の道でも才能が認められず独立という形で
自分の道を切り開かれたこと
2仕事と家庭の両立を最後までやり遂げられ、その間にも素晴らしい作品を世に送られていること
3友人を大切にされ、二人三脚で多くのヒット作品を世に出されたこと。