第25週 芸術家 八代亜紀
はじめに
25週目の芸術家は演歌歌手·女優·タレント·画家の八代亜紀さんです。
子供時代
八代 亜紀(やしろ あき)さんは、1950年8月29日 橋本明代さんとして熊本県八代市にお生まれになりました。
幼少の頃からお父さんの歌う浪曲を子守唄代わりに聴きながら育たれたそうです。
そうした影響もあり、八代さんは歌好きの子供になられ、地元の歌唱コンクールなどにも出場されていたそうです。
八代さんが小学5年生の時、たまたまお父さんが買ってきたジュリー・ロンドンのレコードを聴き、そのハスキーボイスに魅せられたそうです。
もともと自身もハスキーボイスの持ち主だった亜紀さんは、その声に若干のコンプレックスがあったが、ジュリーの声質に勇気づけられ、クラブ歌手になることを意識するようになられました。
上京
亜紀さんは中学卒業後、地元熊本のバス会社九州産業交通(現:九州産業交通ホールディングス)のバスガイドとして勤務しておられましたが、
15歳で父親の反対を押し切り上京されます。
そして銀座のクラブ歌手となられ、スタンダードやポップスなどを歌われていました。
1971年21歳のときテイチクより「愛は死んでも」でデビューされます。
その後読売テレビのオーディション番組『全日本歌謡選手権』に出場して、10週連続勝ち抜きでグランドチャンピオンとなられます。
歌手としての活躍
1973年に「なみだ恋」が120万枚のヒットとなります。
1973年に「なみだ恋」が大ヒットした後、亜紀さんはトラック運転手から“トラック野郎の女神”として絶大な支持を得るようになり、「八代観音」と呼ばれる、八代の顔を模した観音の絵が描かれたトラックが出現したそうです。
これがきっかけとなり、1977年に当時大ヒットを飛ばしていた東映映画『トラック野郎・度胸一番星』に女ダンプ運転手「紅弁天」役で出演し、八代の曲「恋歌」が挿入歌として起用されたそうです。
この映画は配給収入も10億9000万円を記録されたそうです。
この記事を見ると八代観音がどんな感じか分かります。
その後「しのび恋」「愛ひとすじ」「おんなの夢」「ともしび」「花水仙」「もう一度逢いたい」「おんな港町」「愛の終着駅」など、女心を歌った歌で次々とヒット曲を連発されます。
1979年に新境地を開拓した初の男歌「舟唄」が大ヒットし、1980年に発表した「雨の慕情」で日本レコード大賞を受賞されます。
これら2曲は「港町絶唱」と共に阿久悠、浜圭介、竜崎孝路のコンビによる「哀憐三部作」とされ、NHK紅白歌合戦では2年連続大トリを務められました。
こうして亜紀さんは“演歌の女王”と称されました。
1982年センチュリーレコードへ移籍して「海猫」「日本海」「恋瀬川」などを発表されます。
1986年に日本コロムビアへ移籍して現在まで所属しておられます。
1990年の「花(ブーケ)束」はポップス調のバラードで、ファン層以外の支持も受けロングセラーとなりました。
歌手として世界進出
2012年、日本コロムビアに所属しながら同社了承の下で、小西康陽氏プロデュースによるジャズアルバム『夜のアルバム』をユニバーサルミュージックジャパンから発売して世界75か国で同時配信され、亜紀さんは歌手活動42年目で世界デビューされます。
マレーシアのiTunes Storeジャズチャートで1位、シンガポール2位、台湾4位、香港7位、オリコン・アルバムチャートのデイリーチャートで最高9位、週間チャートで最高20位を記録し、ヒット作となった。
オリコン・アルバムチャートTOP20入りは34年ぶりだったそうです。
ジャズ歌手として
また同年11月9日にジャズ歌手としてブルーノート東京のステージに立たれました。
2013年3月27日にニューヨークの名門ジャズクラブ・バードランドでライブを開催し、亜紀さんが憧憬するヘレン・メリルさんをゲストに招き初共演し、4月29日にライブの模様がNHK総合テレビでドキュメンタリー番組『演歌の女王 ジャズを歌う〜八代亜紀・ニューヨークでの挑戦〜』として放送されました。
そして同番組が反響を呼んで8月21日に当日のライブを収録したアルバム『夢の夜〜ライヴ・イン・ニューヨーク』が発売されます。
9月7日に開催されたジャズ・フェスティバル「第12回 東京JAZZ」に出演するなど、現在は演歌のコンサートと並行しジャズライブも積極的に行われています。
2015年10月、寺岡呼人氏プロデュースによる初のブルース・アルバム『哀歌 -aiuta-』を発表し、11月に3年ぶりにブルーノート東京で『AKI YASHIRO "aiuta" Special Night』を、12月に東京国際フォーラムにて『八代亜紀 "哀歌" クリスマスコンサート』を開催されます。
2017年10月、ジャズアルバム第2弾となる『夜のつづき』を発売され、前作『夜のアルバム』に続いてiTunesジャズチャートで1位を獲得されました。
同作品の発売を記念して11月にブルーノート東京、12月にビルボードライブ大阪、2018年1月にブルーノート名古屋でジャズライブを開催する。
現在も亜紀さんは年間を通じて全国を巡るコンサートやディナーショーは演歌・ジャズ・ブルースを構成した内容で、ジャンルレスを掲げた公演を続けておられます。
演歌歌手では珍しく全盛期の楽曲全てが連続ヒットし、女性演歌歌手の中では総売上枚数がトップであられるそうです。
またオリコンのシングルチャートにおけるトップ10獲得作品数も通算7作で、2011年6月に水森かおりさんが8作連続シングルチャートトップ10を更新するまで、女性演歌歌手歴代1位を続けられました。
またアルバムもオリコンの総合アルバム・チャートのトップ10に5作品があり、演歌歌手としては氷川きよし氏、五木ひろし氏、森進一氏に次ぐ第4位だそうです。
総合アルバムチャート・トップ10獲得連続年数は1974年から1976年まで3年連続で、オリコンによれば2007年9月現在で演歌歌手として、7年連続の氷川きよし氏、4年連続五木ひろし氏に次ぐ第3位であるそうです。
歌手以外の活動
亜紀さんは歌手活動だけに留まらず、画家としても1999年からフランスの「ル・サロン」展に5年連続入選され、日本の芸能人として初の正会員になられています。
お父さんは亜紀さんに歌手ではなく画家になってもらいたかったそうです。
1994年、少年漫画『とっても!ラッキーマン』で「ラッキー・クッキー・八代亜紀」というギャグが使われていたそうですが、この漫画がアニメ化した際にオープニングとエンディングを担当し、「ラッキー・クッキー・八代亜紀」と歌い上げたそうです。
また1994年、ペルー共和国のラ・メルセにヤシロアキ工業技術学校を設立されます。ペルー元大統領アルベルト・フジモリ氏の両親が熊本県出身ということで、以前からフジモリ氏を支援しつつ、ペルーに対するボランティア活動も行っておられます。
そして1999年にペルーで開催されたNHK『NHKのど自慢』にゲスト出演されました。
またボランティア活動の一環として、1981年より女子刑務所の慰問公演を続けている。2000年、日本全国すべての女子刑務所を訪問されました。
2005年から2006年に放送された朝日放送(ABC)『トリハダ 〜感じるボロ〜ン〜』では、バラエティ番組のレギュラー司会を初めて担当した。
2012年に故郷である熊本県八代市に新設された熊本県立八代清流高等学校の新校歌制作を依頼され、「故郷の若者がふるさとを思い、愛する気持ちを持ってもらえれば」と快諾し、自ら作詞作曲した新校歌を熊本県立八代清流高等学校に贈っておられます。
めぐめぐがすごいと思う八代亜紀さんのこと
1演歌歌手・ジャズ歌手として素晴らしい歌を歌われ多くのファンを獲得されているところ
2ボランティアですべての女性刑務所を回られたり、ペルーに学校を作ったりその方面でも素晴らしいことをされていること
3そして芸術家としてもその才能を発揮されてフランスで認められていること。