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第32週 芸術家 片岡球子

はじめに

今週の芸術家は日本画家の片岡球子さんです。

お生まれ

片岡 球子(かたおか たまこ)さんは1905年(明治38年)1月5日現在の北海道札幌市東区にお生まれになりました。

画家への道

1922年(大正11年)北海道庁立札幌高等女学校(現・北海道札幌北高等学校)師範科を卒業されます。そして画家になることを決意され女子美術専門学校(現・女子美術大学)日本画科高等科に入学されます。

小学校教員と画家の両立

1926年(大正15・昭和元年)女子美術専門学校を卒業されます。

神奈川県立横浜市大岡尋常高等小学校教諭になられます。

この現横浜市立大岡小学校に勤めながら創作を続けられます。

画家志望に反対する両親から勘当されながら片岡球子さんは画業を進めるが帝展(現日展)には3度落選されます。


1930年代の活躍

しかし1930年(昭和5年)、第17回院展(日本美術院再興第17回展)に「枇杷」で初入選され研究会員になられます。


さらに1933年(昭和8年)の院展にも入選されたそうですが、その後は何回もの落選を経験し1930年代は「落選の神様」と呼ばれたときもあったそうです。


1935年(昭和10年)、日本美術院絵画部第19回試作展入選。「炬燵」が試作賞を受賞されます。
1938年(昭和13年)、日本美術院絵画部研究会員研究会で「寒空」が大観賞第一賞を受賞されます。
1939年(昭和14年)、日本美術院絵画部研究会で「新緑」が大観賞第二賞受賞します。

第26回院展に入選され(「緑陰」)。院友に推挙されます。以後毎回入選されるようになります。


1940年代の活躍


1942年(昭和17年)日本美術院絵画部研究会で「祈祷の僧」が大観賞を受賞します。
1946年(昭和21年)日本画家、能書家の安田靫彦氏に入門されます。

第31回院展無鑑査出品作「夏」が日本美術院賞を受賞します。


1948年(昭和23年)第33回院展入選「室内」が日本美術院賞を受賞します。


1950年代の活躍


1950年(昭和25年)第35回院展入選「剃髪」が日本美術院賞・白寿賞を受賞します。
1951年(昭和26年)第36回院展入選「行楽」が奨励賞・白寿賞を受賞されます。

このころ東京芸大山本豊市教授より彫刻デッサンを学んでおられます。
1952年(昭和27年)第37回院展入選「美術部にて」が日本美術院賞・大観賞を受賞します。日そして本美術院同人に推挙されます。



1955年(昭和30年)29年間務められた横浜市立大岡小学校を依願退職されます。

そして女子美術大学日本画科専任講師に就任されます。

また横浜市南区大岡町から東京都世田谷区粕谷町に転居されています。


1959年(昭和34年)日本美術院第14回春季展に「海岸」を出品されます。

1960年代の活躍

以後1969年(昭和44年)第24回展まで毎回出品されています。
1960年(昭和35年)女子美術大学日本画家助教授になられます。


1961年(昭和36年)院展出品「渇仰」が1960年(昭和35年)度文部省買い上げ優秀美術品に選ばれます。

そして片岡球子日本画展で火山がテーマの作品を発表されます。

以後、富士山をテーマとするまで6~7年間、各地の火山を取材し作品制作されます。

また同年院展出品作「渇仰」および個展の諸作品において日本画界に新風を送り、特に人物画の解釈に新生面を開いたとして 第11回芸術選奨文部大臣賞を受賞されます。


第46回院展に舞楽テーマの初作品「幻想」を出品され、文部大臣賞を受賞されます。そして日本美術院評議員に就任されます。


1962年(昭和37年)第5回現代日本美術展に「桜島の昼」「桜島の夜」招待出品として出品されています。

またこの年初めて渡欧され、フランス・イタリア・イギリス各地の美術館を巡られます。


1965年(昭和40年)女子美術大学日本画科教授に就任されます。
1966年(昭和41年)女子美術大学客員教授になられ、愛知県立芸術大学日本画科主任教授に就任されます。「面構」シリーズ制作を開始されます。このころから「富士山」シリーズを製作開始されます。

1970年代の活躍


1970年(昭和45年)北海道庁の依頼で「函館街頭風景」を制作され、道庁赤レンガに展示してあります。またこの年神奈川県藤沢市辻堂東海岸に転居されています。


1971年(昭和46年)第56回院展に「面構一 葛飾北斎」「面構二 東洲斎写楽」出品され。面構シリーズ初の浮世絵師作品として有名になります。


1973年(昭和48年)定年により愛知県立芸術大学客員教授になられます。


1975年(昭和50年)自伝「情(こころ)ありて」を執筆されます。 第59回院展出品作「面構 鳥文斉栄之」が第31回日本芸術院恩賜賞受賞されますます。

院展六十年の歩み展に「面構 安藤広重」(1973年(昭和48年))を出品されます。


1976年(昭和51年)秋の叙勲で勲三等瑞宝章を受章されます。
1978年(昭和53年)日仏現代美術パリ展(パリ、グラン・パレ)に「喜多川歌麿」を出品され、国際交流基金買上げになります。第27回神奈川文化賞を受賞されています。

1980年代の活躍


1981年(昭和56年)日本美術院理事に就任。NHKテレビ番組「女性手帳(球子画ばなし)」に出演されます。
1982年(昭和57年)日本芸術院会員に就任されます。
1983年(昭和58年)第38回春の院展に「ポーズ1」出品(初めての裸婦作品)
1986年(昭和61年)文化功労者に選ばれる。
1989年(平成元年)第42回中日文化賞を受賞され、文化勲章を受章されます。女性画家の受章は上村松園さん、小倉遊亀さんについで三人目で、この三人を「日本三大女流画家」と称することもあるそうです。

1990年代のご活躍


1990年(平成2年)藤沢市名誉市民に選ばれます。
1993年(平成5年)愛知県立芸術大学教官・卒業生と約20年かけた「法隆寺金堂壁画模写」全32面が完成し一般公開されます。
1996年(平成8年)愛知県立芸術大学美術学部に愛知県奨学基金として1億円を寄贈されています。
1998年(平成10年)日本美術院創立百周年記念展東京展に「面構 豊太閤と黒田如水」(1970年(昭和45年))「ポーズ15」(1997年(平成9年))を出品されています。
1999年(平成11年)都営地下鉄大江戸線築地市場駅構内の「ゆとりの空間」に設置される「江戸の浮世絵師たち」原画制作されます。

2000年(平成12年)「熱き挑戦・・片岡球子の全像」展が横浜美術館で開催されます。

2005年、100歳を迎えてから脳梗塞に倒れたが、療養に努めながら現役を続けておられました。


2008年(平成20年)急性心不全のため103歳で死去され、叙従三位になられます。


2014年(平成26年)名古屋御園座の緞帳、画「富士に献花」が日本体育大学世田谷キャンパスに寄贈され2015年3月に、除幕されました。


その型破りな構成と大胆な色使いから、一部の人々からその画風は「ゲテモノ」とまで呼ばれて思い悩まれたこともあるそうですが、小林古径氏は「今のあなたの絵はゲテモノに違いないが、ゲテモノと本物は紙一重の差だ… あなたの絵を絶対に変えてはいけない…」と励ましたそうです。

球子さんは美しく描くことが全てではないと信じ、自身の信念に従った創作を続け、やがて従来の日本画の概念を揺るがすような力強い表現を確立されました。

「面構(つらがまえ)」・「富士山」シリーズでは特に高い評価を受けています。

1982年(昭和57年)からは裸婦の「ポーズ」シリーズにも取り組まれています。また歌舞伎役者の四代目中村雀右衛門氏と交流があり、有名な助六の揚巻の打掛の墨絵も手がけているそうです。

生涯独身を通しておられたそうです。

例えば以下の画廊で作品を見ることが出来ます。





めぐめぐがすごいと思う片岡球子さんのこと

1小学校の先生と画家として認められるために創作を両立され、院展に入るまで何度も絵を描き続けられ、また小学校は29年間勤められていたこと。

2画家として完成された後も、新しい師について新しいことをいつも学ばれていたこと。

3そして100歳を超え病気と闘いながら、人生の最後まで絵を描き続けられたこと。



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