分かりやすさへの危機感
子どもの頃、好きなことにしか興味を持てなかった。
大人になってからも、子どもの頃と変わらず、興味関心の幅は狭いまま。
人の尺度はどうでもよくて、自分が心踊るものだけが大好きだった。
本を読むときも、同じようなジャンルばっかり読んでいた。
それでも、もちろん楽しいのだけれど。
でも、なんだか、自分が触れたものが、自分の幅を決めるような気もする。
だから、自分の幅を広げるために、今年はいつも読まないような本にも、積極的に手を出すようになった。
最近は、SNSで著名な方が執筆した流行りの本をよく読んでいる。
うん。すごく、おもしろい。
こんな人生を生きている人がいるんだ、と新たな出会いがあった気分だった。
それと同時に「なんだかWEBの記事みたいだな」と思った。
とにかく読みやすいし、わかりやすい。大切な部分はここだ、と直感的にわかる。
印象に残った文章を切り取って、SNSで簡単に発信できそうな内容。
そして、そんな断片を見た人でも、何か学びを持って帰れるような、そんな構成になっている。
そう気づいたとき、こう思った。
待てない読者に合わせているのだ、と。
インターネットに情報があふれ、手っ取り早さが求められるようになった。
「手っ取り早く、確実に学びを得たい」そんなニーズが本に反映されているように感じた。
たしかに、学びはある。
でも、自分で答えを見つけた、という手触り感がなかった。答えが書いてあって、正解を直接手渡されるような感覚。
はじめから正解が決まっていて、考える余白が少なかったな、と思う。
なんだか少しだけ危機感が芽生えた。
文字面をなぞるだけでいいのか、わたし。与えられるものを受け取るだけで、考えなくなっていないか、と。
わかりやすさは満足度が高いけれど、それだけだと、自分で見つける力を失ってしまうように思う。
だから、複雑さや難しさも大切にしたいな。
感受性は、使わないと錆びてしまうから。