愛の手
野原に咲く小さな花のように、ただ坦々と堂々と生きれば良い。そして愛の波動を今へ今へと放てながら生きるのが一番楽で幸せなのを実感する。
今まで自分を愛するってどんな感じなのだろうってずっと考えていた。
愛おしい子供の寝顔を見ていると、この子がただただ幸せでいてくれるだけで良いと思う。それが私達人類の自然な想い。それは本当は神が人類みんなに願う事だって言うのを聞いた時、全くその通りだって思った。お金持ちでなくても、もてなくてもいい、自分の好きなことができて、幸せでいてくれたらそれだけで良いと思う。私もそれと同じことをすれば良いのは誰も教えてくれなかった。きっと今の世の中のシステムが誰よりも優れた何かをしなきゃいけないようなプレッシャーをかけるから。そして大抵の人はそんなきついトラップに罹りながら苦しい、終わりのない自分との葛藤の中で生きている。
愛は視野を広げ、優しさを溢れ出させる。
愛が深くなると周りの目が気にならなくなり、真の自分の世界に目覚め没頭出来るようになる。
父が先月他界した。天晴れ、世界一の死に方だった。
その日、大好きなウィスキーと葉巻、愛する妻の手作りのご馳走にお菓子、そして愛犬と友人達に囲まれ花火を観ながら、あまりの嬉しさに息を飲みすぎ、そのまま天国にいった。
私はそんな寛大な死に方に遭遇してから「死=悲しみ」という固定観念であったイメージが消えた。どうにもならない程傷付いた私の心は悲惨な出来事で蓄積してたのに遠くの何処かへ行ってしまった。きっと父がその私の全ての苦しみを奪って飛んでいってくれたんだ。
考えてみれば、父のように自分に忠実に周りを可愛がりながら~ 結局は自分を可愛がることに繋がるのが面白いんだけど〜そうやって生きるのが私たちの使命なんだと思う。近所の人達はもちろん、季節の花や鉢の中にいる小さな金魚、本もお茶碗も父は手にする全てにおいてのものに対してリスペクトしていた。そしてオーセンティックに生きれたら、周りもその空気に包まれて竜巻のように世界をも動かす。もちろん父も完璧ではなかったけど、何処にも完璧な人なんていない。そんなことじゃなくて、「自分の為に生きる」事を一生懸命すれば良い。
たまには子供のように愛を求め、手に入るまで愛を求めれば良い。いつの日か何をしていても誰にでも愛が与えられているのに気付く。やがて少しずつ、悲しみよりは楽しさを、重いよりは軽さを選んで生きる方が賢いのを知る。そして、これを悟るのに時間がかかるのも許せるようになる。