父の死
八月三日。
日本にいる兄から電話があった。珍しく二度も立て続けにかけてきた。
八月三日は毎年、父の家に花火大会を観に大勢の人が集まる日だった。家のテラスからは、熱海の海の船から放つ花火がちょうど目の前に見えるので、人を招んで観るようになり、いつのまにか大勢の人が来る自慢の恒例のパーティーとなっていた。集まる人たちは大体毎年同じ顔ぶれで、お菓子を持ってきてくれるご夫婦や、釣り仲間の建築家や写真家など、加えて大学の教え子達だったりした。毎回大勢の人が集まるので、父の奥さんも何日も前から準備を始めて楽しそうにやっていた。
ちょうど、その熱海の花火が開催されている中で、父は倒れ、そのまま帰らない人となってしまった。
兄からの電話はその知らせだった。
父はまるでこの事を予知していたかのように、先月奥さんを連れて、私が住んでいるパリに遊びに来ていた。私の息子もアムステルダムからユーロスターに乗って来て、親子三代が落ち合う、奇跡的な数日になった。というわけで、奥さんと二人でたった四泊だけ遊びに来るくらいだから、まだ元気なのかと思っていたのに、最後の最後はあっけない。
これも不思議なものだが、私はこの数年間に大事な人を三人もいっぺんに無くした。母が他界し、中学時代からの親友、続いては父の、になった。
母が亡くなったのは丁度コロナの時だった。当時は日本への入国も大変だったが、入国してから十日の隔離も求められたので、大事な母のお葬式には結局、行けなかった。
たまたまその知らせを受けた日に父から電話があったので、母の死を父に報告した。すると、あんなに喧嘩をして、離婚してからも一言も話さずに母を憎んでいた父だったのに「急いでお母さんのところに行ってあげなさい。」と一言目がこれだった。そんな優しい面を持ちながら、ずっと母を憎んでいるふりだか本気だったか想像できないが、してきたのだったら、とても苦しかったと思う。もしかしたら、父は私の知らない間に母と和解していたのかもしれないし、もしそれが母が亡くなった時だったとしてもその陰を手離せたのなら良かったと思う。
そんなこともあったので、父が亡くなった時には急いで帰ってあげたいと、心の中で思っていた。
そして、とうとうその時がやってきた。父の死の知らせを受け、急いで飛行機で日本に向かった。もう亡くなっているので帰っても仕方がないようにも思うけど、きっと父は喜んでくれると思う。
そう言えば、父の夢は「イタリアで死ぬ事」だった。特にこの数年はイタリアで死ぬと言い張り、私達みんなを困らせていた。これこそ叶わなかったけど、少しだけ灰をイタリアに持って行こうか。だから私は呼ばれたのか、な? 全く、父らしい。