『小さなことに左右されない、「本当の自信」を手に入れる9のステップ』〜メモと気付き③〜
この「メモと気付き」も3記事目になった。①と②での大きな気付き「自分の『あり方』についてのそこはかとない安心感」が、日常生活に定着してきた気がする。
というのも、この1,2週間の生活を振り返ってみると、テーマが「無理をしない」ことだった。正確に言うと、無理をしない自分も受け入れられるようになった。
当初、周囲がコロナで変化していく中、私自身は外部の情報に対してずっと受け身だった。何が正しいのか、何が起きているのかを知りたい余りに、色んなブログや情報を漁った。そして「このコロナ禍が収束するころには時代は変わる。今、その時のための準備をしておかなければならない」的なメッセージに対して焦りを感じ、闇雲に今の仕事を軌道修正しようとしたりした。
でも最近は、そういった「仕事の方向性を考え直す」とか「自己啓発に取り組む」といったこと気乗りがせず、時間的にも気持ち的にもスペースを空けられるようになった。
以前だったら、「こんなに時間があるのにもったいない」とか「怠けているようで嫌だ」まど、自分がやりたいかどうかはともかく、常に動き続けていたが、最近はやりたくないことはやらないようになった。そして、やるべきことをやっていない自分に対して、責めることが少なくなった。
たぶん、「今はやりたくない」という自分の気持ちを尊重し、そんな自分を受け入れ、「怠け者」といったレッテルを付けることが少なくなったのかもしれない。
努力しても、できないことがある
学生時代に「夢のため」に頑張っていたとき、背中を押された言葉がある。そして今思えば重圧にもなっていた言葉。それは「できるかできないかじゃない。やるかやらないか、だ」ということ。
本当にスポ根のようなフレーズだけど、自分にとって手が届かないような高い理想や目標を叶えるためには、そういった言葉で自分を鼓舞するしかなかったのかもしれない。
そして、海外の大学に進学し無事に卒業するためには、それぐらい自分を追い込む必要があったのかもしれない。
頑張らなきゃいけないときに頑張る。それも大事だが、問題は「失敗したとき、上手く行かなかったとき」だろう。
・・・そんな「人間である自分」に対して「努力すればなんでも達成できる」という「DO」の思い込みを向けてしまうと、「できない自分」に意識が向いてしまい、「なぜできない?」が続き、いつまでたっても自信を感じられない、ということになってしまいます。
仕事を辞め、色々チャレンジしても失敗が続いて辛かったのは、これが原因かもしれない。
何でも根性でやり遂げてきた自分にとって、「努力しても思い通りにいかないこと」ほど、もどかしいことはなかった。そして、水島先生が次に言うように、「できない自分」を責め続けるようになった。
「なぜ自分は……」という問いは、問いのように見えて、単なる自己批判です。
「なぜ自分はこんなに頑張っても、社会の役に立たないんだろう」という、自己分析という仮面を被った自己批判のループに入ってしまった。
自分の限界を知ること
限界がある自分に対して、常によい感じ方をしていくということは、限界そのものも愛おしく思っていくこと。「努力すればなんでも達成できる」という「DO」を見ずに、「こういうときにやる気を失うのは、まあ、人間だからね」と受け入れる「BE」が持てると、それが自信を支える大きな柱となります。
自分の限界を知ること。もしかすると、私たちが子どもに夢を与えるため、可能性を信じてもらうために語りかけている、「頑張れば何でも出来るんだよ」というメッセージが、大きなプレッシャーと誤解を与えているかもしれない。
私にとっても、「いくら努力してもできない」というのは辛かったけど、ある時、開き直りのフェーズに入った。
「自分の夢を叶えようと頑張ったけど、上手く行かなかった。結婚して仕事を辞めたけど、新しく仕事を始めようとしても空回りで上手くいかない。ここまで来たらどうしようもない。思い切って専業主婦でいよう」と。
今振り返ると、専業主婦に対する偏見や誤解で凝り固まった開き直りだが、中学生の頃からキャリア志向で、結婚しても絶対共働きがいい!と強く願っていた自分にとっては、とても大きな決断だった。
しかし、それで「自分に対する感じ方」が少しずつ変わっていったのかもしれない。限界を知って、自分ができること・できないことの区別がやっとついたのかもしれない。少しずつ仕事も上手く行くようになっていった。
もしかすると、「限界を知る」ということは「自分が新たな可能性を探ることを許すこと」なのかもしれない。
「今」に集中すること
②でも書いたが、この本には様々なところでマインドフルネスが散りばめられている。
常に基本を「今」に置き、「今」に集中する。そして次の「今」を大切にする。そんなふうにすると、結果として「よい未来が手に入る」ということになります。
「今はこれでよい」と、今を肯定し、一つ一つ自分ができることを積み重ねていく。
水島先生は、「完璧を目指すこと」や「仕事の仕上がり」、「自分の価値」を考えることも、意識を「今」から切り離し、過去や未来、そしてそれに関わる「DO」や成果に心が奪われてしまうことにつながる、と言っている。
ずっと社会や周りの人に対して「自分の価値とは」考え続けた私にとって、この気付きは大きい。
でも、この本を読み始めて思うのが、「人間って本当は存在するだけで、十分すごい」ということ。
人間社会の中での自分の価値を考えてしまうと「どれぐらい社会に影響力があって」とか「どんなすごいことができて」といった能力や成果だけが判断基準となってしまう。
しかし、もっと大きなスケールで考えてみると、地球が始まって自分が誕生するまでにどれだけ多くの命や先祖が「生きる」をつないでくれたのだろうかとか、どれだけ多くの植物や生き物から、たくさんの情報や栄養素をもらっているんだろうかと考えていくと、生きていることだけで十分、このはかない奇跡を体現している。
空気と同じくらい当たり前の価値が自分という存在にはあります。それはいちいち「私には価値がある」と言う必要もないし、「そもそも私には価値があるだろうか?」と問い直す必要もないレベルの価値なのです。
水島先生も、私と同じように「生きていること」自体に価値がある、ということを言っているのか、そこは深く書いてなかったので正確には分からないが、なんとなく近い気がする。
自分という存在のはかなさ
本来人間は、ものすごく無力で、たまたまこの地球に生まれ落ちたぐらいのはかなさを生きているのに、「自信をつける・ない」といった思考の枠は、「自分は自分の意図で生きており、何でも自分の思い通りにできるはず」といったある種の万能感が前提になっている気がする。
そもそも「自分」とは一体なんだろう? 直近の未来さえもコントロールできない無力な中、唯一確かなのは「今、自分がどんな気持ちでいるのか」という、淡い自分という存在を感じ続けることだけなのかもしれない。
「何かができた」「できない」という「DO」の指標は、自分という存在を確認する方法として、とても分かりやすい。でも、もしかすると自分以外の要因、たとえば「周りの人に助けられている」とか「偶然が重なった」といった、外部の要因によって「できたこと」もたくさんあるはずだ。
そういったことに目を向けると、「自信をつける」ということ自体、必要ないのかもしれない。
「今、自分が存在していること」に対して感謝すること。周りの人や生きていることに感謝すること。
そこからまず始まるのかもしれない。
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