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生きるための仕事~父から教わったこと~
私が大学新卒で就職活動をしていた頃は、
●一つの仕事をできるだけ長く続けること
●公務員は安泰
●どんなにつらくても3年は勤める
●年功序列当たり前
等々が当たり前というか常識とされていました。
現在は崩れつつありますね。
一つの仕事を長く続けることはもちろん素晴らしいことですしつらいことがあってもすぐに投げ出さずに頑張れる精神力はとても大切です。
でもそれはその仕事がその人の天職だった場合。
「何か違う。」
「どうして自分はここにいるんだろう?」
「つらすぎる。」
「全然楽しいと思えない。」
こんな気持ちでただただ我慢して長くその仕事を続けていくことに何のメリットがある?いや、ない!
と感じて転職をする人も今ではたくさんいます。
私の父は銀行員でした。
勤続30年のお祝いに家族5人全員をハワイ旅行に連れていってくれました。
毎日コツコツ真面目に働いて私を含めた子供3人と母を養ってくれました。
これがどんなにすごいことか、私は自分がシングルマザーになって子育てしながら働くようになってから思い知りました。
天職じゃなかったから辞めたい、と思っても、家族を養っていたらお金のことを何も考えずに簡単に仕事を辞めることは出来ません。
自分の人生だから好きに生きたい!と次々転職するのもアリですがその間の生活費を考えずに動いてしまうと大変です。お金のことを考えるとなかなか転職に踏み切れない、という人は多いと思います。
父は視覚障害者でした。
父の時代は検査技術があまり無かったこともあり小さい頃から目が悪くて弱視ということはわかっていたがはっきりと「黄斑変性症」と病名が判明したのは銀行員として仕事を始めて何年か経ってからだったそうです。
今なら私も父の苦労がよくわかるのですが、視覚障害がありながら銀行員という仕事を勤めるのはとても大変なことだったはずです。
しかも父のポストは事務センターという銀行の書類関係事務仕事が集結するブレインのような場所でした。そこの主任を任されてかなりの信頼度があったようなので、父のスキルの高さがよくわかります。見えなくても知恵と工夫で努力していたのです。
本当に尊敬します。
私を含め家族全員が父を尊敬していました。それはもちろん父の真面目で優しい人柄があってこそですが、何より私たちにそう思わせてくれたのは、母が父を尊敬して常に父を立てていたからです。
父の出勤時は家族みんなで玄関に行って「いってらっしゃい」とお見送りする、というルールがありました。
私たちは大きくなるにつれそれぞれ学校や部活や仕事など生活リズムもバラバラになり、全員揃ってお見送りは出来なくなっていきましたが、母だけは必ず欠かさずお見送りを続けていました。
父自身が見送りを強制したことは1度もありません。
お見送りのルールは母が決めたことのようでした。
思えばこういう母の姿勢が私たち家族の父尊敬の気持ちを知らず知らず育てていたのだと思います。
幼い頃からの環境って大事なんだなーと本当に感じます。
そんなわけで、身近に視覚障害を持つ父がいたにも関わらず母のおかげで父が障害者であるということをほとんど意識することなく過ごしてきた私でした。
父が57歳の頃のことです。
それまでどんなつらいことがあっても家族のために頑張って弱音を吐くことのなかった父が母にポツリと
「まだ定年退職には何年かあるけど、、、仕事辞めてもいいか?」
と言いました。
父のことをずっと見てきた母はすぐに察して
「いいよ。今までお疲れ様でした。」
と即答したそうです。
今思うと母の父に対する信頼度って本当に高いものだったんだなと思います。
定年退職で貰える退職金の額と比べると今辞めて貰える退職金の額はかなり減ってしまうけど、ここまで頑張ってきた父が意を決して言った言葉の重みを母は感じていたのでしょう。
退職した父の表情はとても晴れ晴れとしていてこれからやりたいことをリストアップして生き生きとしていました。
既に姉は嫁いで家を出ており、私は大学を卒業して新卒採用で入社した書店で正社員として働き始めたところでした。弟はまだ大学生でしたが奨学金も受けていましたしそれくらいの学費はなんとかなる、という感じでした。
母と二人で退職記念の沖縄旅行に行く計画を立てて旅行代理店に費用も振り込んでまさにこれからというその矢先でした。
父は心筋梗塞をおこして倒れ、1年間植物状態となりました。
予定していた旅行はキャンセルし母は毎日病院に通って動かない父の手足をマッサージし続けました。
医師からは回復の見込みはないと告げられましたが目覚めることを信じて家族で毎日祈りました。
幼い頃から弱視で、
でも人一倍の努力で勉強して
家族のために頑張ってきた父。
仕事を辞めてようやくこれから好きなことをやろうとしていたところだったのに。
脳死状態で
身体は動かないけれど
瞬きやくしゃみ、痰の吸引時の苦しそうな表情や咳こむ様子を見ていると、今までのようにおしゃべりが出来そうな気がして、
「ねえお父さん」
「聞こえてるよね?」
「元気になって沖縄旅行行こうよ」
と話しかけ続けました。
医師は脳が機能していないから聞こえていないだろうと言っていましたが家族は信じていました。
だって目は開いていて瞬きをして時折話しかけに反応するように動くのです。
ただの反射だと言われても信じられませんでした。
しかし家族の呼びかけに返答することなく、
1年間の植物状態を経て、
父は58年の生涯を終えました。
父の人生は幸せだったのだろうか。
コツコツと真面目に仕事をし家族のためにつらいことがあっても仕事を辞めずに働き続けた。やっと退職して好きなことをしようとした矢先の死。
仕事を辞めたいと考えるときいつも父のことを思う。
父の努力を尊敬していた。
でも、本当に好きなことは出来なかったのではないか。
我慢していたのではないか。
人生ってなんだろう。
どう生きるのが正解なんだろう。教えてお父さん!
脳裏に浮かぶ父は何も言わず
ただ微笑んで私を見つめるだけ。
言葉ではなく身をもって父は教えてくれた。