👓️父たちの「推し花」を推す🏵️
以前、私には「お母さん」が二人いるんです、という記事を書いた。
実は、私にとっての「お父さん」も二人いるのだが、どちらも故人なので思い出が溢れてしまうためか、書こうとしてもなかなか文章がまとまらずにいた。
けれどもここへ来て、「推し」と聞いて思い出したのが、二人のお父さん=父&舅のことだった。
そもそも「推し」とは
ということで、もともとは「非現実的な存在」について抱く好感を現す言葉のようだけれど
最近は「◯◯が好き」と言う代わりに
「◯◯推し」と言ってみたり
身近に存在するものについても、気軽に宣言する言葉として使っている気がするのと
既に故人となってしまったお父さんたち2人は、私にとって「永遠のアイドル」に近い存在で、それぞれに個性的な人たちだったけれど、「花が好き」という共通点があり。
思い入れのある花=推し花🏵️も決まっていたので、そんな父たちの「推し花」を通してなら、
私の「推し」である二人の父について語れるな、との思いで⇒思い出を詠んでみた短歌たちです。
まどろっこしくてスミマセン😜
まずは、実父の推し花🏵️
凌霄花(ノウゼンカズラ)
🏵️その花愛でし父は逝きぬ 満開のころ 凌霄花
🏵️「患者さん家に、凌霄花が咲いたよ」と傘寿の父は笑みけり
🏵️色白で 夏は苦手な父が好いた 凌霄花の如き女性(ひと)
🏵️荒ぶりしまかやき のびて拡げよその興味と知見を父のごと
🏵️まかやき大樹に沿い いつの間にか飄々と空を凌ぎ 父わらう
凌霄花は、夏から秋にかけ、オレンジ色のラッパ型の花をいくつも咲かせるツル性の植物。
平安時代には日本に入っていたとされ、古くは「まかやき」とも言ったそう。
俳句では夏の季語。
その可憐で明るい花の見た目と裏腹に、他の植物や石壁に絡み付き、生い茂る強靭な生命力を持つ。
父が亡くなって、もう9年。
なぜ、凌霄花が好きだったのか、はっきり理由を聞いたことはないが、「父が好いていた」という記憶がある花。
私は、父と干支が4回り違う、遅い子どもで。
今でこそ高齢で家族をもつのは珍しくないが、40ウン年前の当時は、かなりのレアケースだったろうと思う。
鍼灸師と理学療法士の資格をもち、人生を通じて「人体」へ興味を持ち続けた父は、81歳で亡くなる3ヶ月前まで、東京の下町へ訪問リハビリテーションに通っていた。
患者さんの中には、父より年下の方もいた。
それほど高齢になっても働き続けられたのは、日頃の心身管理と、周りの理解と協力あってのものだと思う。父の職場仲間にお会いしたことはないが、本当に感謝したい。
信州南部に生まれ、三男だった父は、高校卒業後すぐ上京し、文具会社や整髪料会社の住み込み社員をしていたらしい。しかし、勤めていた会社が相次いで倒産し、「何か手に職をつけなければ」と思った父は、鍼灸師と理学療法士の資格を得て、病院で働き出した。
私が一人娘だったこともあってか、父は自身が得たあらゆる体験と経験を、できるだけ私に伝えようとした。
勿論、私としては「反抗期」という時期も手伝って、その全てを素直に受け止めることはできなかったけれど、今ではもっと聞いておけば良かったな、と思うこともある。
ある程度大人になってから実は、母と出会う前に意中の女性(ひと)がいたことを聞いた。そちら方面はとんと興味の無さそうだった父に、そんなロマンティックな思い出があったのかとウキウキしてしまったほどだ。
その女性がどんな人かは短歌に委ねます☝️
父の言葉と生き方を通じて私は、
「人の役に立つ技術を得ること」
「心身を日頃から意識して保つこと」
「一生、生き甲斐をもって働き続けること」
その大切さと素晴らしさを、教えてもらったと思っている。
🌑🌑🌑
次に、舅の推し花🏵️
朝顔(あさがお)
🏵️ふるえる手で液肥を鉢に注ぎし父が咲かせし 巨大あさがお
🏵️大輪の 朝顔に歓声あげし じじの手が添う幼子の手よ
🏵️朝顔の 世話済ませ父 嬉々として 小遣いねだり パチスロ店へ
🏵️落ちた種をいつまでも探す父の
背|《せな》を支える 古文全集
🏵️平安にもたらされし牽牛花
つなぐは父と教え子の縁
🏵️窓辺にて 父がつま弾くギターの音
風に乗せるは 朝顔スピーカ
🏵️母の手で 今年も咲きし朝顔の 朝露たたえ色さえざえと
朝顔は、平安時代に中国から日本へ持ち込まれたが、もともとは花よりも種が貴重な「薬」として珍重されていた。
別名の「牽牛花」は、その貴重な種をもらった礼に、「牛を引いて礼を述べた」ため。
俳句の季語では「秋の花」として知られているが、入谷の朝顔市や、日比谷公園の大輪朝顔展など、夏の風物詩となっているイベントは多い。
大輪朝顔を育てていた舅は、3年前に亡くなったが、多いときには250鉢もの朝顔を毎日世話していた。
高校の国語教師だった舅は、教師仲間で大輪朝顔を育てている方に誘われ、元気だった頃は自分で運転して朝顔の会にも顔を出していたが、50歳を迎える前にパーキンソン病を発症し、かれこれ20年以上、動かなくなる心身と闘いながら、朝顔を育て続けた。
亡くなった年の夏は、暑さも厳しく、世話をしようと外に出てはひっくり返って動けなくなったり、種を落としたと思い込んで、延々と床の上を這いずり回ったり、ほとんど自分で世話はできなかったが、見かねた姑が手伝って、どうにか花を咲かせることができた。
闘病生活は、壮絶な部分もあったけれど、大好きなパチスロにもちゃっかり通っていたし、朝顔の世話を通して孫たちともふれあったり、本人も家族も思い残すことは殆どないくらい、あれこれ一緒にできたのは良かったと思っている。
私が嫁入りしたとき、舅は既に退職していたので、私は教師時代の舅を知らないが、朝顔は卒業後の教え子さんたちにも広められ、毎年、朝顔と恩師の様子をうかがいに、教え子さんたちが来てくださっていた。
卒業後かれこれ30年も経つ教え子さんたちが、それぞれ予定をやりくりして舅を慕ってくださっているのを見て、私もこんな先生に教わりたかった、と思ったものである。
舅は、ビートルズやサザンオールスターズ世代で、たまにアコースティックギターを弾いてくれることがあった。
定番の「禁じられた遊び」や「アルハンブラ宮殿の思い出」を、病で動きづらくなった指を嘆きつつ弾いてくれたのを今でも覚えている。
「介護」の大変さと楽しさを、身をもって教えてくれたお父さんだった。
そんな二人の「お父さん」へ、心からの感謝と「推す」気持ちを捧げたい。
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