教育的関係における一考察〜内田樹の議論を参照しながら〜
はじめに
本稿の目的は、神戸女学院の名誉教授であり、現在は武道と哲学のための学塾・凱風館の館長である内田樹(1950-)の教育観を整理することで、その独自の教育哲学を考察することである。
内田の教育哲学は、自身が30年に渡り大学で教鞭を取ったことや、合気道の師範としての経験から精錬されていき、それは内田の数多くの著書の各所で展開されている。
その内容としては言語教育から宗教教育まで多岐にわたるが、今回の論考では主に内田による「教育の定義」と、「教育の好ましくない姿」としての「市場原理に支配される教育」の2点を取り上げて考察していく。
この2点は、現在の学校現場においては積極的に語られることが少ない内容であるが、中曽根内閣の「臨時教育審議会」以降、新自由主義的価値観や新保守主義的価値観に基づく教育政策が広がりつつある中では、そのアンチテーゼとして機能できるであろう内容である。
全国学力学習調査における都道府県間の平均点で一喜一憂しその対策として過去問に取り組ませたり、コロナ禍に伴って緊急配備されたGIGAスクール構想の「一人一台端末」の使用法を模索したりと、教育現場は「目の前の課題」で忙殺されがちである。そんな今だからこそ、内田の教育議論のような「大局的な」議論が求められている。教育の本質について考察し、明日からの教育実践に役立てたい。
1 内田樹における”教育の定義”
1−1 教育の受益者は共同体
教育とは何なのだろうか。学校現場では、そのような原理的な問いが生まれることは少ない。常に終わらない「課題リスト」を片手に目の前の業務をこなしていくだけ、というのが現場にいる先生の悲鳴にも似た実感なのではないだろうか。しかし、教育という営みがそのような状態で行われてもいいのだろうか。ここは一度、立ち止まってみて、「教育とは何か」という大きな問題と向き合ってみたい。
内田はそもそも教育をどのように捉えているのだろうか。
内田はこの議論のすぐ後で、多くの人が陥りがちな「勘違い」として、教育の受益者を「本人」としてしまう点を挙げている。
例えば、我々大人も、「どうして勉強をするの」と子どもに問われたら、その理由として挙げるのは「将来の就職の選択肢を広げるため」のような「あなたのためですよ」という内容になりがちである。しかし、これは「教育の受益者は本人である」ということが、我々に深く内面化してしまっていることに他ならない。
内田自身も認めているように、教育の受益者は「共同体」である、という内田のアイディアを「同意してくれる人」は極めて少数らしい。しかし、このアイディアは教育基本法の理念とも整合するのだ。
この「教育の目的」を読むとき、後半部分の「必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成」に意識が向きがちであるが、むしろそこで語られる「必要な資質」に注目して欲しい。それは「平和で民主的な国家及び社会の形成者」としての「必要な資質」なのである。さらに、ここから「形成者」という言葉について考えたい。
「形成者」という言葉には、「形を成す」という意味がある以上、そこには「作り上げる者」としての「主体性」がある。学校現場でよく先生の口から出る指導としての「こんなこともできないのでは、社会に出たら困りますよ」というのは、この教育の目的に含まれた意味をわかっていないことになる。子どもたちは「未来の社会」を「作り上げる存在」なのであって、既存の社会に「お客様」のように「参入する」存在ではないのだ。
このように、既存の社会に対して「形成者」として参画するための「必要な資質」を育成することが求められるという教育基本法の理念に照らせば、内田の「教育の受益者は個人ではなく、共同体である」というアイディアも納得できる。
今の教室で学んでいる子どもたちは、我々大人も生きる「未来の社会」を形成する存在なのであるから、しっかりとその「必要な資質」を身につけてもらわねば、同じ共同体の成員である我々も困ることになる。
未熟な成員ばかりによる民主主義は機能しないばかりか、気づいたら独裁者による専制を許してしまうことにもなりかねない。
1−2 教育の本質
では、教育の受益者は共同体であるとして、その中で、子どもたち「本人」は何を学んでいるのだろうか。次は「本人」視点からの教育の本質についての内田の議論を考察していく。
この世界というのは「意味」で満たされている。しかし、子どもたちはその意味を知らないので、この世界の見え方が異なる。
これは例えば、「表面張力」を知らない子どもが、それを習った日のお風呂で見つけた「盛り上がった雫」に感動を覚えたり、「かけ算」を知った子どもが、箱に入ったチョコレートの個数を瞬時に数えられることを喜ぶことに似ている。
子どもたちの生きている「今、ここ」とは違う「外部」への「通路を開く」ことこそが、子どもたちが教育を受ける「意味」なのである。
では、外部への通路を開く者は誰か。それこそが教室における教師の役割である。
「子ども」と「意味」という「線を結びつける」というのが、教室における教師の役割なのである。
1−3 教育の逆説
しかし、その教育の「本質」は、子どもたちが理解できないような構造になっている。それを、内田は以下のように論じる。
ここでの修行は、そのまま「学び」に変換してもいいでしょう。内田は続けて、身体技法を例にとって論を続ける。
先日、体育科の授業で「ボール投げ」をした。「ボールを投げる」という行為自体は知っている子どもたちも、身体技法までは知らなかった。すると、子どもたちは、投げる方に「おへそを向けて」投げる。しかし、「ボールを投げる」という動作を効率良くするためには、これではいけない。投げる方と「逆の腕の肩」を相手に向けて「半身の状態」で投げる方がボールに力は伝えやすい。
これを習う前後で、子どもの中の「投げる」という動作における「身体実感」には大きな変化が起きたはずである。それは「習う前」には「あれ」として想定できるようなものではない。これは、前節で述べた「表面張力」や「かけ算」と同じことである。少し大袈裟に言えば、習う前後で「世界が変わる」のだ。
2 教育の好ましくない姿
2−1 消費者として現れる子ども
それを学ぶまで、その価値がわからない。
前章の終わりで、内田は教育の逆説を上記のように論じていた。この教育の逆説に対して、就学以前に資本主義における消費者としての存在を内面化してしまった子どもたちは、学校で「想定外の問い」を投げかけることになると内田は論じる。
この「非常にシビア」かつ「非常にビジネスライク」な質問の背景にあるのが「消費者」的な考え方である。内田はここで諏訪哲治の議論を参照しながら、新自由主義的な考え方で溢れ返る時代の子どもたちには「まず消費主体としての立ち上げ」が求められる点を指摘する。
社会関係の立ち上げが、消費ではなく労働から入るということを内田は以下のように論じる。
そして、これは家庭環境の変化だけでなく、子どもを取り巻く大人側の意識の変化にもあるという。例えば1−3でも論じたように、子どもたちが学ぶことの意味を知りたいときに、「経済合理性を動機づけにして子どもを学習に導き入れようとする大人たち(同書 p34)」がいる。
こうして、子どもたちは「学ぶ」ことの意味でさえ、経済の論理で考えるようになり、消費者的な思考を深く内面化していく。
2−2 消費主体としての行動規範
消費者的な思考を内面化した子どもが、「学びの場」である教室でどのように振る舞うことになるのか。それを端的に言えば、「なるべく少ない対価で商品を得ようとする」ということになる。
この事例として、内田は「大学の最初の授業で学生たちが必ず訊いてくる」質問を挙げる。それは以下の二つで、「何点とると単位もらえますか」と「何回休めますか」である。これらは「単位を取れるためのミニマム」である。
単位を商品として見立てれば、これは消費者としては自然な振る舞いである。同じ質のリンゴ(単位)が並んで置いてあり、片方は100円で、もう片方は200円の場合、わざわざ200円を払う合理性を消費者は持ち合わせてはいない。
こうして子どもたちは、学びという「意味不明」な商品を「なるべく少ない対価」で交換しようと無意識に振る舞うことになる。それが、授業への意欲の損失を招くこともあるだろうし、学力低下という問題に伏流していることでもある。
2−3 子どもたちが払う貨幣
しかし、小学校には大学のような「単位」は存在しないから、市場のような交換がわかりにくい。しかし、それでも子どもたちは消費者のように「貨幣」を持っている。それは、市場でやり取りされる「貨幣」ではなく「不快」であると内田は論じる。
確かに、教室にいる子どもたちの不可解な言動はこの理論で説明できる。例えば、子どもたちは「昨日の宿題、先生のために丁寧に書いてきたよ」ということを言う。もちろん「先生に褒めてもらいたい」という子どもの心理も真実なのだろうが、無意識レベルでは「不快貨幣」との交換として「宿題」を捉えていると考えることもできる。
他には「おもしろくない授業は聞かない」という子どもたちの言動もある。最近は、大人側も、「子どもにとって「おもしろく」て「わかりやすい」授業をしない先生が悪い」という価値観はずいぶん広がっていると感じるが、これも子どもたちを「消費者」として見立てているからこその価値観である。
なぜなら、市場においては「消費者の判断」が疑われることはないからだ。「売れない商品」があるとして、それが売れないのは「買わない消費者が悪い」と言ってしまう経営者は無能そのものである。
しかし、これまで論じたように、「学び」とは「学んでみるまでその価値や有用性が判断できない」ものである。だから、子どもが「おもしろい」と感じるのは、その時点で判断できる「狭い子どもの価値観の中」のことである。
少し脱線するが、子どもたちはユーチューバーであり、昨日一般女性と結婚した「HIKAKIN」が大好きである。それは、彼自身が「子どもでもわかるよう」に「大きなリアクション」や「変顔」を意識的に多用しているという話を聞いたことがある。ユーチューブは「商業」であるので、この手法はむしろ「賢い経営的な戦略」である。しかし、それをそのまま「学び」に適用してもいいものか。そういう大人の態度が、子どもたちを「消費者的な主体」として振る舞わせるのではないだろうか。
おわりに
今や、情報までもが「商品」として市場取引される今の時代において「この世は遍く市場である」という価値観は、大人を含めほとんど全ての人に共有されているのが、現在の新自由主義経済の時代である。
その中にあって、学びの現場である教室における「学びの主催者」たる教師に求められる「倫理的規範」というのは、内田が以下に述べる「逃れの街」を構築することなのではないだろうか。
PISAの調査に一喜一憂することでさえ、その調査を主宰している経済協力開発機構(OECD)の目的である「経済成長」に関わることである。さらには、そこから利益を得ている「教育企業」の経済活動を推進していることにも繋がりうる(この議論は『第四時産業革命と教育の未来』 佐藤学著 岩波ブックレット に詳しいので参照のこと)。
さらに、日本でのGIGAスクール構想でさえ、それは文科省単体の教育事業ではなく、総務省と経済産業省との様々な利権が絡んだ政策であることも付記しておく(この議論については以下の過去の論考をされたい)。
このように、日々の教育実践を「淡々と」こなしているだけでは、「ここ」の支配に抗うことは難しい。今や、現場の教師には、これらの議論を踏まえて「主体的な判断」を担う「主体」として教育実践を担ってもらう必要があるが、これについては別の論考で考察したいと思う。