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道徳は「伝達」、倫理は「生成」、そして社会化と主体化の話

道徳と倫理の違いをいろいろ書き出してみながら、そこにある価値を見出していきたいと考えています。

学習指導要領の「特別の教科 道徳」の項には、様々な「道徳的諸価値」が並べられています。それをもとに「生きる力」などの教科書が作られているので、道徳はこれらの「道徳的諸価値」を学ぶ教科という言い方もできるでしょう。実際、学習指導要領には以下のように目標が設定されています。

第1章総則の第1の2の(2)に示す道徳教育の目標に基づき、よりよく生きるための基盤となる道徳性を養うため,道徳的諸価値についての理解を基に,自己を見つけ,物事を多面的・多角的に考え,自己の生き方についての考えを深める学習を通して,道徳的な判断力,心情,実践意欲と態度を育てる。

学習指導要領 「特別の教科 道徳」 第1 目標より

この文章の文末には「態度を育てる。」という表現があるので、「特別の教科 道徳」が「道徳的諸価値」の伝達に終始するものではないことはわかります。一方、どのように「道徳的な判断,心情,実践意欲と態度を育てる。」のか、また「自己の生き方についての考えを深める学習」をするのかという問いには、答えがありません。ここに「特別の教科 道徳」の難しさがあります。そして、これは「教育一般」における難しさとも言えるでしょう。

例えば、算数科における「かけ算の筆算」を教えることとは訳が違うことは一目瞭然です。かけ算の筆算を児童が理解できているかどうかについては、ある程度、客観性をもった方法で調べることができます。具体的には、数問を自力で解かせて正解が出せているかをみればいい。それをもって「理解しているかどうか」というのは評価することができます。自力で解けないのならば「教えて」あげたらいい。しかし、「よりよく生き」れているかとか、「自己の生き方について考え」られているか、というのは調べることが難しいです。というか、できません。

そこで、道徳科では「児童に、自分の言葉で語らせる」という方法が取られがちになるですが、これだって怪しいものです。ある程度の、リテラシーがあれば「書くという行為を通して新しい自分と出会える」という経験はあるかもしれません(僕だって、その感覚に出会えたのは最近です)。しかし、小学生には、それはまだ難しいかもしれません。書くという行為はそれくらいに知的負荷が高い活動です(書く偏重の現在の学校教育が多くの「書くこと嫌い」な子どもを生み出している問題点については、いつかどこかで集中的に書いてみたいです。)。結局、「道徳の時間には、やたらと書かせるから嫌い」という子どもからの正直な意見も「そりゃ、そうだよな」となります。そういう子どもたちは「とりあえず、文字数を稼ぐためには・・・」という、「教師にOKをもらえる書き方」を体得していくという事態はいくらでもあるでしょう。

これについては、明確な答えが僕の中にあるわけではありません。現在は低学年の担任なのでなおさら、この問題については考えています。暫定的な答えとしては、「キャッチボールのような会話を中心にして、児童それぞれに思いを語らせてみて、書きたい子は書き、苦手な子は一言でもいい」というような「ゆるい」実践を通して、道徳的諸価値について考えさせられたらいいと実践しています。

結局「どう教えたらいいかわからない」という道徳科を前に、我々教師は、子どもたちに「道徳的諸価値」について考えさせることしかできないのです。そして、それが「伝達」という道徳の持つ特性に繋がります。

「伝達」は悪いことではありません。というか、このような「伝達」がなければ、子どもたちの「社会化」というのは果たされません。「社会に出たら困るわよ」という教師のお馴染みのセリフは、まさに「社会化の必要性」を伝えるための「嫌味」なのです(もっと優しい言い方をすればいいのに)。それぞれの社会には、それぞれの社会における規範があって、それがあるから社会はスムーズに回っていくのです。社会の場面が、すべて「一回きりの特別な出来事」であれば、我々はもっと混乱するはずです。

だから「思考停止」がすべて悪いわけではない。
コンビニエンスストアで買い物するときに、いちいち店員さんのことを知らなくても、我々はおにぎりを買うことができます。
電車に乗ればとりあえず、みんなが同じような行動を取ってくれるので、我々は不安にならなくて済む。

例えば、コンビニエンスストアでおにぎりを買う時に店員さんから「おにぎりを買う前に、僕とあなたのことをもっと知りたい」と言われたり、電車の吊り革でいきなり体操競技を始められたら僕たちはギョッとしますよね。こういう事象を我々は「社会性が無い」と言ったりするのです。

東北の震災のときです。海外のメディアが驚いたことは、これだけのカタストロフが起きたにも関わらず、日本人の多くが理性を失って強盗などを働くことなく、救援物資の配給をもらうために「列を守って並んでいた」ことだそうです。これこそ、日本の学校教育の成果だと言わずしてなんだと言えましょう。海外では、これが「当たり前」ではないからこそ、盛んに報じられていたのでしょう。

有名な話ですが、日本のようにどこでも「自動販売機」がある国は珍しいそうです。海外の人からすれば、自動販売機は「街に置いてある貯金箱」みたいなもので、「どうして誰も持って行かないのか」となるそうなのですが、この話を聞くたびに「日本という国に生まれたよかった」と感じてしまいます。

僕の弟が海外を旅行したときにも、例に漏れず「電話の隙に荷物を強盗された」そうで、例に漏れず「靴下にパスポートと現金を入れておいた」から、日本領事館を通じて日本の両親に助けを求められたのです。

いずれの例も、日本国民の「高い社会性」がなし得た「偉業」です。これは誇らしい。そして、これは日本国民の「低い主体性」の裏返しであるという耳の痛い話も、合わせてしていかないといけません。

教育哲学者であるガート・ビースタは学校教育の役割を3つ挙げています。それが「資格化」「社会化」「主体化」です。
簡単に説明すると、「資格化」が「学力などの知識や技能」で、「社会化」が「社会の規範を身につける」ことで、「主体化」が「自分自身のありのままを発揮できる力能」です。
ご覧の通り、「社会化」と「主体化」は、どちらも大事な点ではあるのですが、この双方は「打ち消しあう」ことがあります。つまり、「社会規範通りに動く」人は「自分自身のありのままを発揮」することは決してできません。そして、「自分自身のありのままを発揮」する人だらけの社会では、コンビニエンスストアでスムーズにおにぎりを買うことができないかもしれません。

そういう意味で、「高い社会性」と「高い主体性」の両立は困難であり、それはしばしば「高い社会性」への代償として「低い主体性」として支払わされているのです。

随分、話が転がってしまいました。ここで強引に本筋に話を戻すと、道徳教育というのは学校教育全般に渡って行われるというのは、学習指導要領の総則にも載っているわけで、そういう意味での学校教育の「社会化」偏重という指摘も、まあ、古来よりされているわけですが、そういう文脈で道徳を置いたときに、その対極としての「倫理」を打ち出してみたいと考えているのです。

道徳的諸価値に代表されるように、道徳には「伝えるべき価値」があります。以前には「道徳の徳」は「積む」ものであるという話もしました。
一方、倫理はそうではありません。

アンソニー・ウエストンの言葉を引きます。

「倫理(ethics)」と「道徳(moral)」はしばしば同じ意味で使われる。しかし、その違いを念頭に置いておいた方がよいだろう。道徳的価値は、生活の中で時間をかけて吟味され、不都合が見つかったならば必要な修正を施すというふうにして、ゆるやかに身についてきたものである。他方、「倫理」という語はもっと批判的で自覚的な鋭さをもっている。倫理において、価値を生きることから価値について考え抜くことへと、踏み出すことになる。

『ここからはじまる 倫理』 アンソニー・ウエストン著 野矢茂樹他訳 2004 p10

ウエストンは、倫理を「価値について考え抜くこと」と述べています。これには、終わりはありません。それは、コンビニエンスストアでおにぎりを買うこととは異質の話です。個別具体的な事象について、悩み葛藤する姿勢のことです。自分がした決断について「未練込みで引き受ける」ような「主体」を育てようというのが、まさに倫理の目指すところなのです。

これが倫理の持つ「生成」という要素です。冒頭で述べた「よりよく生きる」というのも、まさに倫理の持つ「生成」が必要な部分なのでしょう。そして、それは「教えられない」から「伝達」できない。

何よりも、教師自身が「倫理とは何だ」と、常に悩み葛藤している姿を見せるのが大切なのかもしれません。そうやって、悩み葛藤する教師を、子どもの時に何人も見れば、子どもの中でも「倫理とは何だ」という問いは生まれるはずで、それこそ「倫理の第一歩」なのではないかと、そんなことを考えながら日々教育をしています。