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明日、死ぬかもしれない
今日は教育の話というよりは、人生というか、生き方のような話をしたいと思います。
20世紀最大の哲学者と言われるのが、ナチスに加担したことでもしられるマルティン・ハイデガーです。彼は別名「死の哲学者」とも言われています。それは、彼が「人が真に人間的になれるのは、自分の死を意識したときだ」と述べているからです。これを「先駆的決意性」とも呼びます。
ハイデガーは、多くの人間は現在の人生を「本当に生きているわけではない」と喝破します。昨日のような今日を過ごし、今日のような明日を過ごす。そのような生き方をハイデガーは「頽落(たいらく)」と表現しています。
たしかに、僕だって、朝から夜まで身を粉にして働き、帰ってきてからは家事育児をして、子どもたちを寝かしつけてから、自分が寝るまでの1時間は晩酌やらTikTokを見たりして。こう考えると、僕が生きている意味ってなんだろうと少し悲しくなります。
有名な話として、このようなものがあります。
ある一人のビジネスマンが言いました。
「僕は毎日一生懸命働いている。それは老後に、海の近くに住んで、毎日のんびり釣りをして過ごすためなのさ。」
それを聞いた漁師の男は言いました。
「それなら、僕は毎日しているよ。」
たしかに、上の話のビジネスマンのように「老後を期待して」現在をがんばっている人は多いかもしれません。しかし、それは自分自身が「80歳過ぎまで生きる」という「曖昧な人生観」を採用してしまっていることを意味します。たしかに、日本人の「平均寿命」は「80歳過ぎ」かもしれません。しかし、それは、あくまで「平均」なのであり、決して「あなたの寿命」ではありません。それは、これを書いたすぐあとに僕が死んでしまうかもしれないということも意味します。
ここから僕は新しい宗教の話を始める、わけではなくて、人生における「終わり」、つまり「死」を意識することで、その行動は変容するのではないかというハイデガーの「先駆的決意性」を感じてほしいわけです。
一年後に死ぬなら、あなたはどんな1年間を過ごしますか。その過ごし方こそが、まさに「あなたらしい」生き方だと思うのです。
ここからは僕自身の話なのですが、僕は現在36歳です。このまま定年まで教師を続けるのか、それともセカンドキャリアとして他職を経験するのか、というのはとても悩ましいです。もちろん「老後にのんびり哲学書を読みながら、思索に耽る」という人生プランを考えていたこともありました。でも、そんな老後はやってこないかもしれない。それなら「やっておきたいことは、やっておこう」と思い、「大学院受験」を決意しました。
誰もがこんな決断ができるわけではありません。大きな決断から小さな決断まで様々あることでしょう。それでも、ハイデガーの「先駆的決意性」という考え方を知るだけで、あなたの行動が少しでも変容できるのならば、あなたは自分の人生の歩むべき道を歩けることになるような気がします。
なんだか、自己啓発的な胡散臭い内容になってしまいました。
では、良い週末を。